【つの版】度量衡比較・貨幣36
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
長々と中世欧州の貨幣および歴史に深入りしてしまいました。今回は中世後期のイスラム世界、およびアフリカなどを経巡ってみましょう。
◆Youssou◆
◆Ndour◆
世界旅行
イスラム圏の基軸通貨は、7世紀末以来ディナール金貨とディルハム銀貨です。ディルハムは一般労働者の日給相当、ディナールは20-22ディルハムですから月給相当です。各々4gと3gほどで、金銀比率は金4g=銀66g、1:16.5ほどとなります。しかし金銀が枯渇したりして変動し、地域によっても重量が異なっていきました。のちシリア以東では金貨が打刻されなくなり、モンゴルによってチャイナの銀がもたらされ、銀貨が基軸通貨となります。
1325年に西マグリブ(モロッコ)を出発し、世界を経巡って25年後に帰国した旅行家イブン・バットゥータは、各地での貨幣事情も記録しています。彼の時代のディナール金貨は25ディルハム銀貨に相当しましたが、マグリブのディルハムは低品質ゆえか軽量ゆえかエジプトとシリア(マムルーク朝)のディルハムの1/6(8ファルス銅貨)の価値しかなく、イラクとイランのディルハムと較べても1/3の価値しかなかったといいます。
物価(マグリブ・ディルハム/md換算)
1md:野菜や果物1単位
2md:肉700g(マグリブ、高い時)、果物6kg(イラク)
3-6md:葡萄1.85kg(シリア)
6md:葡萄450g(エジプト)、肉700g(エジプト)、パン1kg(シリア、高い時)、
梨1.5kg(シリア)、野菜1.85kg(シリア)
15md:肉1.85kg(シリア)
マムルーク朝のディルハムが1.2万円とすれば、マグリブ・ディルハムは2000円ほど、1ファルスは250円となります。
イブン・バットゥータは大旅行の途中インドのトゥグルク朝のスルタンに仕え、首都デリーの法官に任命されました。その年俸は1.2万ディナールとされ、それに相当する土地を割り当てられました。月給1000ディナールです。
インドでは1ディナール金貨がマグリブのそれの2.5倍あり、10ディナールの銀貨と等価とされていました。金貨では高すぎますから銀貨とすれば、マグリブ・ディルハムが2000円として1ディナール=25ディルハムは5万円。1インド・ディナール金貨は12.5万円、インド・ディナール銀貨は1.25万円となります。とすると月給1000インド・ディナール銀貨は1250万円で、年俸は1.5億円にもなります。この上には外国使節を迎える式部官がいて年俸2.4万ディナール(3億円)、諸官庁の会計職が年俸4万ディナール(5億円)、最高司法行政官が年俸5万ディナール(6.25億円)といいます。
彼はまたモルディブ諸島の貝貨、チャイナの紙幣(交鈔)についても報告していますが、実際にこれらの地を訪れたかは怪しいといいます。
モルディブの貝貨の単位は100個がステヤーフ、7ステヤーフがファール、12ステヤーフがクッター、1000ステヤーフ(10万個)がブストゥーで、4ブストゥー(時には10ブストゥー)でようやくディナール金貨1枚です。1ディナールを4gとすれば貝貨1ブストゥーは金1gに相当し、これを3.6万円とすれば1ステヤーフで36円、ファールは252円、クッターは432円です。モルディブの住民はこれでベンガルからコメを輸入していました。
交鈔については「金銀は通用せず、掌ほどの紙片を取引に用いる。25枚がバーリシュトと呼ばれ、我々の国でいう1ディナール金貨に相当する」としています。とすると紙片1枚が1ディルハムに相当するわけですが、実際の交鈔の額面は10文から2貫文=銀1両まで様々でした。
沙原交易
東方で金貨が乏しくなった後も、北アフリカやエジプトでは高品質な金貨が打刻され続けました。エジプトにはナイル上流のヌビアから黄金がもたらされ、西アフリカのセネガルやニジェール川流域には砂金が産出し、8世紀から16世紀にかけてサハラを越えて北へ運ばれました。これらの地域をアラビア語ではビラード・アッ=スーダン(黒人の土地)と総称しています。
サハラを越えての交易は遠い昔から行われており、カルタゴやローマはガラマンテスという先住民を介して交易を行いました。ラクダも4世紀には導入されています。ただガラマンテスの輸出品は象牙や奴隷、獣皮や宝石で、黄金が大規模にもたらされるのはアラブが北アフリカに進出してからです。彼らはもとが沙漠と隊商の民ですからサハラ交易には積極的で、地元のベルベル人(ガラマンテスの子孫)も盛んに交易路を開拓しました。8世紀にはモロッコ南東部のシジルマサに都市が建設され、西スーダンとアンダルスや北アフリカを繋ぐ要衝として栄えました。
やがてニジェール川流域には現地の黒人によりガーナ王国が築かれ、莫大な黄金を輸出します。これによりイスラム世界と欧州に黄金が行き渡り、多数の金貨が発行されたのです。代わりにガーナが輸入したのは周辺で採掘される岩塩ですが、イスラム世界の文物や人間もやってきます。交易路はサハラを横断して遥かエジプトまで繋がり、ガーナ王国は交易商人に課税して富を集め、歩兵20万人、弓兵4万人を擁する帝国へと発展していきました。
しかし1076年頃、ガーナの首都クンビ・サレーはベルベル人のイスラム王朝ムラービト朝に征服され、滅亡は免れましたが混乱して衰退します。これに替わって周辺の諸民族が台頭し、13世紀中頃にはマリ帝国に取って代わられます。この帝国は最盛期にはニジェール川流域とセネガル川流域を支配しており、やはり莫大な黄金産出量によって世界的に有名でした。
1324年、マリ帝国の皇帝(マンサ)であるムーサはイスラム教の聖地マッカへの巡礼を行いました。彼は多数の家臣と奴隷を率い、ラクダ100頭に13トン(1頭あたり130kg)もの黄金を背負わせ、エジプトの首都カイロでばら撒かせました。このためカイロでは黄金の価格が1ミスカール(4.25g)あたり銀25ディルハムから22ディルハムに下落し、12年経ってもそのままであったといいます。イブン・バットゥータは東方への旅から帰ると、これらサハラの南の国々をも訪れ、旅行記に書き記しています。
西アフリカではモルディブ産の貝貨や銅・岩塩・布などが貨幣として通用しており、豊富に産出する黄金は貨幣とならず、装身具や贈り物、輸出品として用いられました。
イブン・バットゥータによるマリ帝国の貨幣換算
貝貨1150個=1ディナール金貨(4g)
岩塩1荷(250-280kg)=黄金20-30ミスカール(85-127.5g)
銅の延べ棒:薄いものは600-700本、厚いものは400本で黄金1ミスカール(4.25g)
薄い銅の延べ棒1本:肉と薪
厚い銅の延べ棒1本:奴隷、モロコシ、バター、小麦
黄金1gに換算すると
貝貨287個=岩塩2.5kg=厚銅94本=薄銅153本
岩塩と貝貨に換算すると
貝貨1個=岩塩8.7g
薄銅1本=岩塩16.3g=貝貨2個
厚銅1本=岩塩26.6g=貝貨3個
岩塩板1枚(30kg)=貝貨3448個=薄銅1724本=厚銅1149本=黄金12g(3ディナール)
黄金1g=3.6万円として
岩塩30kg=43.2万円
厚銅1本=375円
薄銅1本=250円
貝貨1個=125円
マルコ・ポーロによれば雲南では貝貨80個で銀1サジュ(3.6g=1万円)、640個で金1サジュに相当し、やはり貝貨1個が125円相当です。モルディブでは100個でようやく36円ですから、遠くへ運べば値上がりするわけです。ただし納税時は貝貨1600個で金1サジュと計算され、貝貨しか持たない場合は不利となったため、銀経済が浸透して行きました。
マリ帝国はその後も一大文明国として栄えますが、14世紀末には衰え、やがてソンガイ帝国にとって代わられました。ポルトガル人はこれらアフリカの富を求めて大西洋沿岸を南下し、大航海時代を切り拓くことになります。
マリやソンガイの南のダホメ王国では貝貨が基軸通貨でした。成人の1日の生活費が貝貨100個、荷物運搬人の日当が120個、鶏1羽が200個といいますから、1個が100円ほどに相当します。貝貨は40個ずつ紐に通して用いられましたが、39個で40個、80個で100個とされるなどチャイナや日本の銭・貫と似たような慣習があったようです。アフリカ西海岸では他に重さ300gほどの純銅の腕輪が交易に用いられ、奴隷1人が腕輪10個ほどで売買されました。
近東財政
マムルーク朝は、アイユーブ朝に代わって13世紀中頃から16世紀初めまでエジプトとパレスチナ、シリアを統治しました。ヴェネツィアはオスマン帝国に対抗するためマムルーク朝を支援し、また東方やアフリカの富を交易で獲得しています。しかしヴェネツィアを始めとする欧州諸国が、豊かなイスラム世界に輸出できるようなものは少なく、東方の産品と引き換えに欧州の金や銀が流出することになりました。「地金飢饉」の原因です。
14世紀中頃にモンゴル帝国の諸ウルスが崩壊していくと、ユーラシアを繋ぐ交易路が衰え、イスラム世界は再び銀不足になります。これを補うために欧州の銀が盛んに求められたのですが足りず、ディルハムはファルスと同じく銅貨にまで落ち、計算用の貨幣と化しました。イスラム世界では早くから小切手や為替手形、銀行などの金融業が発達しており、カネモチはこれらを利用して財産を保持しましたが、庶民はインフレに苦しみました。
1422年にマムルーク朝のスルタンに即位したアシュラフ・バルスバーイは内紛続きで衰退していた国を立て直し、イエメンやキプロスを征服して勢力を広げ、新たなディナール金貨を発行して貨幣改革を行いました。これは重量3.4gでヴェネツィアのドゥカートにほぼ等しく、スルタンの名からアシュラフィーとも呼ばれました。1438年に彼が逝去すると、マムルーク朝は再び内紛状態となり、1517年にはオスマン帝国に滅ぼされてしまいます。
オスマン帝国では、前述のように第二代君主オルハンの時代、1327年頃にアクチェ(白い小さな)銀貨が発行されました。東ローマやトレビゾントの銀貨を参考にしたものですが、およそ1/3ディルハム≒1gの銀貨であり、英国のペニーに相当します(しばしば切り下げられました)。軍人や役人の給与はアクチェで支払われ、マドラサ(官吏養成学校)の教授は日給20-100アクチェ(1アクチェ=3000円として6万-30万円)、首都の知事が日給500アクチェ(150万円)、財務長官の年俸が15-24万アクチェ(4.5億-7.2億円)などといいます。
騎士(スィパーヒー)には一定の土地の徴税権を与える代わりに軍事義務を課し、2万アクチェ(6000万円)未満の徴税権をティマール、10万アクチェ(3億円)未満をゼアーメト、それ以上をハスと呼びました。
アクチェの他、ディナールやディルハム、ヴェネツィアのドゥカートもオスマン帝国で流通しました。1477年頃、オスマン帝国はドゥカートを模倣した重量3.45gの金貨スルタニ(アルティン「黄金」とも)を発行し、19世紀まで重さと品質を保っています。帝国の推計税収は15世紀前半に250万ドゥカート(3000億円)、15世紀末には300万ドゥカート(3600億円)を超え、東方の大国として欧州を脅かしました。
◆Baba◆
◆Yetu◆
さて、次回はようやく東アジアに戻ります。モンゴル帝国が北方へ遁走した後、明朝や日本ではどのような貨幣を用いたのでしょうか。
【続く】
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