【つの版】日本刀備忘録38:討悪路王
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
平安時代初期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂は、国の北を守る軍神・毘沙門天の化身として崇められ、武家が台頭すると武士の理想像として称えられます。また彼は各地の鬼神を退治したとの伝説が広められ、史実から離れて独り歩きし始めます。
◆鬼◆
◆丸◆
藤原利仁
坂上田村麻呂が薨去してから100年あまり後、延喜15年(915年)頃に鎮守府将軍に任じられたのが藤原利仁です。先祖の魚名は奈良時代末期に光仁天皇を擁立して朝廷の実権を握り、桓武天皇が即位すると太政官の首席である左大臣に昇りましたが、突如大宰帥に左遷されて失脚し、子孫は中級貴族にとどまりました。そのため一族は国司(受領)を歴任し財力を蓄え、地方豪族と結びついて武家化していきます。利仁は延喜11年(911年)に上野介、翌年上総介となり、下総・武蔵といった坂東の国司を歴任して盗賊の討伐にあたりました。彼の子孫は斎藤氏を名乗り、加賀や越前、美濃に土着しています(戦国時代の斎藤道三はもと長井氏で、のちに斎藤氏を名乗りました)。
坂上田村麻呂や藤原秀郷と比べれば、彼の歴史上の事績は華々しくありませんが、中世には田村麻呂と並び称される武者とされました。平安後期の『今昔物語集』では若い頃に役人に芋粥を食べさせようと領地の敦賀へ招いた話や、勅命を受けて新羅征討を命じられたものの高僧に調伏されて頓死した話などが収録されています。新羅征討の話は後世の伝説でしょうが、『保元物語』では田村将軍と並んで「鬼神を攻め」と語られ、『吾妻鏡』や『義経記』でも田村将軍と並び「悪路王(悪事の高丸)・赤頭(赤頭四郎将軍)を討伐した」と記されます。
ただ利仁本人には有名な事績がないため、次第に田村麻呂と混同され、室町時代の幸若舞『未来記』では利仁を音読みして字をあて、「坂上李人」と呼ばれています。彼の子が「坂上田村丸」で、奈良坂のカナツブテと鈴鹿山の立烏帽子を討伐したと語られるのです。また『鞍馬蓋寺縁起』では、鎮守府将軍の藤原利仁が宣旨により下野国の群盗の蔵宗・蔵安を討伐に赴く際、田村将軍と同じく鞍馬山に参籠して加護を祈り、凱旋すると毘沙門天像を造立して剣とともに納めたとします。これらの伝説をもとにして、室町時代後期までには「田村語り」に藤原利仁が取り込まれていきました。
俊仁将軍
御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』においては、藤原利仁は「俊仁」と表記されます。彼の父・俊祐は俊重将軍の子でしたが、50歳になっても子がおらず、心に適う妻子を求めて上洛し、嵯峨野で美女と出逢いました。彼女は俊祐と交わって身籠りましたが、3年経っても産まれず、産屋に籠もって出産します。彼女は「7日間は産屋に近づかないで」と夫に告げますが、心配した俊祐が禁を破って産屋を覗くと、妻は長さ百尋(150m)もの大蛇の姿となり、2本の角の間に美しい赤子を乗せ、舌であやしていました。妻は「私は益田池(大和国高市郡に存在した貯水池)の大蛇です。約束を破ったのでこの子は日本の主にはならないが、天下の大将軍になります。名を日龍丸と名付けなさい」と言い残して去っていきました。
日龍丸が3歳の時に父は他界しますが、彼はすくすくと成長し、7歳の時に帝から「武蔵国(近江国とも)の見馴川(小山川)に2匹の大蛇がおるゆえ退治せよ」と宣旨を賜ります。彼らは倉光・喰介といい、日龍丸の母方の伯父を名乗りますが、日龍丸は家宝の角の槻弓と神通の鏑矢を用いて退治します。帝は彼を嘉して将軍の号を授け、元服させて俊仁の名を与えました。
17歳になった俊仁は、堀川中納言の娘・照日御前を見初めて契りますが、帝の嫉妬を受けて伊豆へ流罪となります。怒った俊仁は瀬田の唐橋の橋桁を強く踏み鳴らし、10年前に退治した大蛇の魂魄に呼びかけ、「都に上がって心のままにせよ」と命じました。すると都では異変が相次ぎ、天文博士に占わせると「俊仁将軍を都に呼び戻さねばおさまらない」と言われたので、帝は慌てて彼を呼び戻し、照日御前と娶せたといいます。やがて夫婦の間には2人の娘が産まれましたが、男児は産まれませんでした。
討悪路王
ところがある日、照日御前が辻風に巻き上げられ、大勢の男女ともども行方不明になります。嘆いた俊仁は夢告に従って愛宕山へ向かい、母(叔母とも)である大蛇の霊魂から「陸奥国高山の悪路王という鬼があなたの妻を攫いました。鞍馬山の多聞天(毘沙門天)にご加護を祈りなさい」と告げられます。俊仁は感謝して母の成仏のために法華経を読誦させ、鞍馬山に21日間参籠して毘沙門天から剣を授かりました。
やがて悪路王の居城に到達しましたが、悪路王は眷属の鬼ともども越前に出向いており留守でした。東門を守る馬飼の女房から「悪路王はいつも地獄王という馬(龍とも)に乗って城に入ります」と教わり、俊仁はその馬を連れてこさせて乗りますが従わず、剣で脅して城門へ向かわせます。ところが一向に城門は開かず、神仏に祈ると門が開きました。
城内には(『大江山絵詞』と同じく)大勢の男女が囚われており、すでに食い殺されたりスシに加工されたりした者もおり、地獄めいた有り様です。そこへ空がかき曇り、悪路王と鬼たちが風雲に乗り居城へ戻ってきたので、俊仁は毘沙門天の剣を投げ、悪路王や鬼たちの首を刎ねて皆殺しにし、妻や人々を救出して帰還しました。『吾妻鏡』では坂上田村麻呂が討伐したはずの悪路王は、御伽草子では俊仁に討たれるのです。
唐土遠征
俊仁は55歳の時に唐土を従えようと考え、帝の許可を得て3000艘の船に50万騎を載せて博多から出航し、明州の津(寧波)に現れ、7日の間唐土に火の雨を降らせます。唐人は大いに仰天しますが、恵果和尚(空海の師匠なので10世紀には遷化していますが)が不動明王に外敵退散を祈念したところ、不動明王は降魔の利剣を振るって俊仁の前に立ちはだかります。
しかし俊仁は毘沙門天から授かった神通の剣で対抗し、不動明王は劣勢となります。そこで不動明王は日本の鞍馬寺へ瞬時に移動し、毘沙門天に直接掛け合ってこう言います。「もし俊仁が勝てば唐土で仏法の権威が傷つく。私が日本に渡って俊仁の代わりに王法を守護するから、彼の力を失わせてくれ」。毘沙門天が了承すると神通の剣は光を失って三段にへし折れ、俊仁は降魔の利剣に首を刎ねられたといいます。新羅ならぬ唐土の明州寧波へ攻め寄せたというのは、室町期に盛んだった倭寇のことをいうのでしょうか。
金礫法師
さて俊仁が陸奥へ赴いた際、初瀬郡田村郷というところで賤の女と一夜の契りを交わし、形見として一本の鏑矢を置いて立ち去りました。彼女は懐妊して男児を産み落とし、臥と名付けて養育しましたが、10歳の時に鏑矢を持って上洛し、俊仁と父子の対面を果たします。俊仁は彼を色々と試したのちに認知し、元服させて「稲瀬五郎坂上俊宗」と名乗らせました。これがすなわち坂上田村丸(田村麻呂)です。父が唐土で没すると彼は博多に漂着した父の遺体をあらため、菩提を弔いました。
さて田村丸が15歳(17歳とも)の時、大和国と山城国の境の奈良坂に金礫法師ないし霊仙という化生の者が現れ、カナツブテ(金礫/金属製の投擲武器)を投げて多くの人を殺し、都への貢物を掠奪していました(平安末期の『宝物集』に鈴鹿の立烏帽子と並んで「奈良坂のカナツブテ」という盗賊の名が見えます)。田村丸は宣旨を受け、兵を率いて討伐に向かい、木々の枝に良い着物を掛け並べて待ち構えます。
すると背丈が2丈(6m)もある異様な風体の法師が現れ、巨大な金礫を次々と投げつけて田村丸を撃ち殺そうとしますが、田村丸は全て扇ではたき落とし、畏れをなした霊仙は山へ逃げようとします。しかし田村丸が放った神通の鏑矢にどこまでも追跡されるので降伏し、船岡山で処刑されて首を晒されました。帝はこの功績を嘉し、田村丸を天下の大将軍とします。
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ここまでは『鈴鹿の草子』と『田村の草子』でおおよそ共通していますが、この先は大きく展開が異なります。前者や御伽草子『立烏帽子』では田村丸が立烏帽子(鈴鹿御前)討伐を命じられ、「剣合」をした後に恋仲となってともに鬼神と戦うのですが、『田村の草子』では大嶽丸なる鬼神を討伐せよと命じられた田村丸が、鈴鹿御前と戦うことなくその助力を得ることになります。立烏帽子は官軍に討伐された盗賊ですし、『太平記』には「剣合」の話が出ていますから、前者の方が本来の形でしょう。
◆刀◆
◆剣◆
【続く】
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