【つの版】ウマと人類史EX22:村岡五郎
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
天慶3年(940年)、新皇を称した平将門は平貞盛・藤原秀郷らの活躍によって討ち取られました。彼らは朝廷から官位を授かり、子弟を京都に送り込んで貴人の護衛をさせ、権益を維持拡大します。一方、将門の地盤であった下総には彼の叔父・平良文が勢力を伸ばしていました。彼については謎が多いのですが、ざっくり調べてみましょう。
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村岡五郎
良文は高望の側室の子で五男にあたり、武蔵国大里郡村岡郷(現埼玉県熊谷市村岡)に所領を持ったことから村岡五郎と呼ばれました。『将門記』に彼に関する記述はありませんが、同時代史料『外記日記』によると「平良文が将門戦死の報を安倍忠良へ伝え、忠良が翌日上野国(国衙)へ伝え、上野国から信濃国へ、信濃国から早馬で京都へ伝えられた」とあります。
とすると実在人物ではあるようですし、少なくともこの時には将門に味方していた様子はありません。もし味方していたとすれば逆賊扱いで誅殺されたはずです。しかし後世には「良文は、少なくとも乱の前までは将門の味方であった」との説が広まっています。
彼は仁和2年(886年)に京都で生まれたといい、天慶3年(940年)には54歳で、将門より16歳年長です。父の高望は昌泰元年(898年)に上総介に任じられ、子の国香・良兼・良将らを連れて東国へ下向しますが、13-14歳の良文は京都にとどまりました。延長元年(923年)、36歳の時に相模の賊を討伐するため派遣され、ようやく坂東にやってきたとされます。将門は918年頃から930年まで京都で滝口武者をしていますから、出会う機会もあったでしょう。
源平合戦
1120年代に成立した説話集『今昔物語集』によると、むかし東国に源宛と平良文という二人の兵がおりました。宛は武蔵守・源仕の子にあたり、武蔵国足立郡箕田(現埼玉県鴻巣市北部)に本拠地があったことから箕田の源二と名乗りました。
宛と良文の両者は「兵の道」について論争するうち仲が悪くなり、家来たちも告げ口し合い、ついに各々500から600の兵を率いて対陣しました。両軍が盾を並べ、弓矢を射掛けようとした時、良文は「一騎打ちで決着をつけよう」と申し出、宛も承諾します。
両者は馬に乗り、弓矢を携えて前に出ると、馬を駆けらせながら互いに射ち合います。二人は矢を放ったりフェイントをかけたりして駆け引きし、馬から転げ落ちるようにして躱し、腰当てで矢を防ぐなど術の限りを尽くしますが、決着はつきませんでした。やがて両者は健闘を讃えて仲直りし、以後は仲良く過ごしたといいます。
この時代の一騎打ちの様子が見事に活写されていますが、実は源宛は承平3年(933年)の生まれで、将門が討たれた時は8歳にも満たぬ少年であり、良文より47歳も年が離れていますから、こんな勝負をしたはずもありません。彼の父の源仕なら良文と同年代ですし、良文の子や孫が勝負したのかも知れませんが。また箕田と村岡は荒川を挟んで10kmほどしか離れておらず、ともに武蔵国北部の馬牧適地で、このような争いは彼らでなくとも頻繁にあったでしょう。なお源宛は天暦7年(953年)に20歳で死去しており、彼の子が頼光四天王の一人・渡辺綱です。
良文所領
伝承によれば良文は天慶2年(939年)4月に鎮守府将軍に任じられ、乱を鎮圧したといいます。藤原忠平の日記で同時代史料である『貞信公記』には、実際にこの時に出羽国で俘囚が反乱を起こし、陸奥守にも出兵が命じられたとありますが、この時の鎮守府将軍の名は伝わりません。将門の父や伯父も鎮守府将軍になったのですから、任命自体はあり得ることです。
しかし彼がどう将門と関わったか、天慶3年の乱において良文がどう動いたかも記録がなく、ただ上述のように「将門の戦死を報告した」とあるだけです。であればこの頃には陸奥ではなく坂東にいたのでしょうか。天暦6年(952年)12月18日に67歳で没したと伝えられますが、将門の死からそれまでの12年間に何をしていたかも詳らかではありません。
その所領とされる「村岡」についても、武蔵国熊谷郷村岡の他、相模国鎌倉郡村岡(現神奈川県藤沢市村岡)であるとも、下総国結城郡村岡(現茨城県下妻市村岡)であるともいいます。国香や良兼のように国司相当の官位もないため、将門の父・良将と同じく各地に点々と所領を持っていたのかも、子孫たちがそれぞれ村岡の名を地名に冠したのかも知れません。
良文の所領・居館があったとされる地には、他に下総国東部の香取郡・海上郡があります。彼は香取郡東庄(現千葉県東庄町)に大友城を、その近隣の阿玉台に屋形を築いたといいます。
そして将門の所領があった結城郡・猿島郡の南、相馬郡にも良文の所領がありました。後世には「相馬はもと将門の領地で、将門討伐後に良文が賜った」とされますが、実際にはもともと良文の所領であったようです(1130年に良文の子孫の千葉氏が伊勢神宮へ寄進し「相馬御厨」という荘園となりました)。将門とは所領を接していて別段争った様子もないのならば、やはり将門と良文は比較的友好関係にあったのかも知れません。将門が坂東諸国の国司を勝手に除目した際に武蔵守を任命していないのは、武蔵に所領のあった良文をはばかったから、というのは穿ち過ぎでしょうか。
将門血縁
将門の子についての同時代記録はありませんが、『今昔物語集』17巻には「将門の子である良門の子を蔵念といい、陸奥国府の小松寺の沙弥(私度僧)となり70歳で姿を消した」「平将行(将門?)の三女は陸奥国恵日寺の傍らに住んで如蔵尼と名乗った」とあり、子孫の一部は陸奥国へ逃れたようです(有名な滝夜叉姫は彼女をモデルとして江戸時代に創作された人物です)。また将門には将国という男子もいたとされ、良文に匿われて常陸国信太郡浮島(現茨城県稲敷市霞ヶ浦)に逃げ延び、信太(信田)氏や相馬氏の祖になったと伝えられますが、実在したかは定かでありません。
良文には五人の息子がおり、長男・忠輔は早死しましたが、三男の忠頼(経明・恒明とも、通称は村岡次郎)は「将門の娘・春姫を娶った」と後世の系譜類に記されています。これが本当かは定かでありませんが、あり得る状況ではあるでしょう。良文や貞盛・秀郷らが将門の所領を直に接収すれば反発が起きますし、将門の息子がいたとしても朝敵の子が所領を継ぐわけにはいきませんから、将門の娘が暫定的に相続人となり、その夫(婿)が養子となって平和裏に所領を引き継いだというわけです。国衙や現地住民にとっても治安維持を行ってくれる領主がいなければ困ります。
忠頼と忠光は、寛和2年(986年)に平貞盛の弟の繁盛が比叡山延暦寺へ大般若経600巻等を送った際、武蔵国において「旧敵である」としてこれを妨害したと記録にあります。朝廷は彼らを追捕せよと諸国に官符を発しますが、私的な争いだとして即時撤回しています。彼らと繁盛の関係が悪かったのは、貞盛派と将門派の争いも絡んでのことでしょうか。
忠頼の子・忠常は千葉氏・相馬氏など房総平氏の祖となり、弟の忠光は三浦氏等の祖になったとされます。将門の血を母方から引くかも知れない忠常は、11世紀前半に坂東で再び大乱を起こすことになります。
◆北斗◆
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【続く】
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