【つの版】ウマと人類史12・冒頓単于
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
紀元前221年、秦王政は他の六国を征服して天下(チャイナ)を統一し、自ら「始皇帝」と名乗りました。しかし秦の北には月氏・匈奴・東胡などの騎馬遊牧民が割拠しており、始皇帝は彼らを防ぐため長城を築きました。
◆立体◆
◆機動◆
万里長城
古くは周の時代から、北方の遊牧民を防ぐ手段として長城(土で形成した長い壁)が築かれました。同様の発想は世界中にあり、バビロニアやアッシリア、ローマも各地の国境線に壁を築いて外敵の侵入を防いでいます。春秋戦国時代には北方以外にも国境線に壁が築かれましたが、秦が天下を統一すると、その内部の長城は一応不要となります(陝西盆地を守る函谷関や武関は残りました)。ただ北方や西方に対しては、さらなる防備が必要でした。
始皇帝以前、秦の王たちは甘粛省定西市岷県から北東に長城を築き、固原市、慶陽市、楡林市の北を通って黄河にまで至りました。また趙はその東、フフホト市、朔州市、大同市の北に長城を築き、陰山山脈の南麓にも別の長城を築いて河套地区を囲い込みました。燕は張家口市から北京の北を通って遼寧省を囲み、朝鮮の一部にまで長城線を伸ばしています。
趙が滅亡すると北方への圧力が弱まったため、匈奴の頭曼単于はゴビの南北(モンゴル高原)を統一し、南は陰山と黄河を越えて河南(河套、オルドス)の沃土を占拠しました。チャイナの統一政権に対抗して、北方騎馬遊牧民も統一されたのです。前215年、秦の将軍・蒙恬は30万の軍を率いて匈奴を撃破し、河南の地を奪って漠北(外蒙古)へと追いやります。さらに始皇帝は匈奴を防ぐため、黄河を見下ろす34の城を築かせ、それまでの秦・趙・燕の長城を繋いで「万里の長城」としました。秦の1里は約450mですから、およそ4500kmになり、誇張ではなく実数です。蒙恬は罪人を長城の守備兵とし、九原(内モンゴル自治区包頭市九原区)から雲陽の甘泉山(陝西省咸陽市淳化県)まで1800里(810km)の直通道路をひらき、陰山の北の陽山・北仮まで占拠しました。さらに陽山を拠点として北伐を繰り返し、匈奴は蒙恬の威勢に恐れおののいたといいます。
前210年、始皇帝が崩御すると、これを秘匿した宦官の趙高らは偽の詔勅を作成して蒙恬に送り、皇太子の扶蘇とともに自殺を命じました。翌年には陳勝・呉広の乱が勃発して秦は崩壊し、長城の守備兵も逃げ去ったので、匈奴は再び南下して長城を乗り越え、河南を占拠しました。しかしこの頃、頭曼は息子の冒頓に殺され、単于の位を簒奪されています。
冒頓単于
冒頓(上古音muːɡs tuːns)とは古テュルク語のbaghatur(勇士)にあたります(のちモンゴル語に入ってbaatarと訛りました)。父の頭曼(上古音doː moːn)はテュルク語のtumen(万、万騎)に相当するため、匈奴語は古テュルク語に近いと考えられています。『史記』匈奴列伝によると、彼は父から後継者と目されていましたが、父は後妻が生んだ子を可愛がるようになり、冒頓を疎んじて西の月氏の国(甘粛・青海)へ人質に出します。そして兵を率いて月氏を攻め、冒頓を月氏が始末してくれるよう仕向けました。油断していた月氏は激怒して冒頓を殺そうとしますが、冒頓は月氏の良馬を盗んで脱出し、帰国に成功します。頭曼は彼の勇気に感心し、1万の騎兵を統率させますが、冒頓はいずれ殺されると思い、クーデターを画策します。
まず、父から与えられた兵を率いて「自分が鳴鏑(鏑矢)を放ったら、すぐさま同じ方向に矢を放て。これに従わない者は斬る」と命令します。最初は狩りに出て野の禽獣を射ましたが、鏑矢にあわせて矢を放たないものは命令どおり斬り殺します。次いで自らの愛馬に向かって射て、同じく射ないものは斬り殺します。さらに自分の愛妾を射て、同じく射ないものは斬り殺します。そして父の愛馬を射ると、全ての部下が矢を放ちました。こうして信頼できる部下を得たのです。やがて頭曼と連れ立って狩猟に出た際、冒頓が父に向けて鏑矢を放つや、部下もみな矢を放ち、頭曼を殺しました。さらに冒頓は、継母や弟たち、自分に従わない重臣を全て抹殺した上で、単于に即位しました。時に秦の二世皇帝元年(前209年)といいます。
即位直後、東胡から使者がやってきます。東胡とは燕の北方、モンゴル高原東部に割拠していた遊牧勢力で、春秋時代に山戎(考古学的には夏家店上層文化圏)と呼ばれた連中と思われます。使者は冒頓単于の器量を試そうとして「頭曼単于が所有していた、一日に千里(450km)を駆ける駿馬を頂きたい」と申し出ます。冒頓が部下を集めて意見を聞くと、「駿馬は匈奴の宝ですから、与えてはなりません」との意見が多く出ましたが、冒頓は「隣国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」と言い、東胡へ贈りました。侮った東胡は再び使者を遣わし、「単于の閼氏(妃)の中から一人を頂きたい」と申し出ます。部下はみな激怒しますが、冒頓は「隣国なのに、一人の女を惜しむべきではない」と言い、東胡へ贈りました。
つけあがった東胡は三度使者を遣わし、「両国の国境である千余里の荒野(甌脱の地)を、東胡が占有することにしたい」と言ってきます。甌脱(上古音qoː lˁot)とは匈奴語か東胡語かわかりませんが、月氏語と思われるトカラ語Bで「辺境」をartarというらしく、多少関係がありそうな気もします。今回は部下の意見が分かれ、「どうせ棄て地だし、与えてもいいのでは」との意見も出ますが、冒頓は激怒して「土地は国の根本だ!」と言い、土地を与えることを主張した連中を全員斬り殺します。そして馬に跨るや「遅れた者は斬る」と告げて兵を集め、東胡へ攻め込みました。油断していた東胡は散々に打ち破られ、匈奴に征服されます。残党は東方へ逃げ去り、烏桓山(赤峰市)に逃れたものが烏桓、北方の鮮卑山に逃れたものが鮮卑になったといいます。彼らの子孫が契丹やモンゴルとなります。
冒頓は続けて積極的な攻勢を行い、西は月氏を駆逐し、南は陰山の楼煩や河南の白羊の王を倒し、西南は朝那(甘粛省平涼付近)や膚施(甘粛省慶陽市付近)にまで到達し、東南は燕や代に侵入して、蒙恬に奪われた匈奴の領地を奪還しました。さらに北方は渾臾・屈射・丁零(テュルク)・隔昆(クルグズ)・薪犂を討ち、勢力を大きく広げます。当時のチャイナでは始皇帝死後の乱世が続いており、匈奴は南からの圧力を受けることもなく強大化を進め、30万の騎射兵を擁する大国となったのです。
囲白登山
紀元前202年、漢王劉邦は西楚の覇王項羽を倒し、天下の覇者となりました。しかし始皇帝のように天下全体を統一支配はできず、各地に諸侯王を封建し、その宗主としての皇帝・天子となります。周と秦のいいとこどりを狙ったわけですが、諸侯王はしばしば漢に背きました。同年7月、燕王の臧荼が反乱を起こし、捕縛・処刑されます。子の臧衍は出奔して匈奴へ亡命し、劉邦は幼馴染の盧綰を新たに燕王としました。
前201年2月、劉邦は戦国韓の王族であった韓王信を国替えし、河南の潁川から太原郡(山西省太原市)に遷します。韓の故地から辺境に移されたため韓王は恨み、「首都の晋陽は国境から遠いので、匈奴を防ぐため馬邑(朔州市)に遷りたいと存じます」と申し出て許可されます。9月に冒頓単于が攻めてきて馬邑を囲むと、韓王は匈奴に使者を遣わし、包囲を解いて講和しようと申し出ますが、劉邦はこれを疑って問責しました。韓王はこれを口実に漢を離反し、匈奴に馬邑を明け渡してしまいます。
同年10月、冒頓は韓王の軍勢を吸収して南下し、句注山(恒山)を越えて太原を攻撃しました。劉邦は歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴くと、韓王の軍を銅提で撃破して将軍の王喜を斬り、韓王は匈奴へ逃げ込みます。劉邦は兄の劉仲を代王に立てて匈奴を防がせますが、韓王の将の曼丘臣と王黄らは趙王の後裔・趙利を擁立して王とし、韓の敗残兵を集め、匈奴とともに漢を攻めようと図ります。匈奴の左賢王と右賢王(副王たち)は各々1万余騎を率い、王黄らとともに広武に駐屯し、さらに南下して晋陽に到りました。漢軍は匈奴を晋陽で破り、追撃して離石で破り、さらに楼煩の西北に集結した匈奴をも戦車と騎兵で撃破しました。
しかし、これは冒頓の罠でした。彼は弱兵を前方に置き、負けたフリをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ漢軍は奥地へ誘い込まれます。焦土作戦はしていませんが、スキタイがペルシア軍に用いた戦法そのままです。劉邦の謀臣である劉敬(婁敬)はこれを看破し、伏兵がいるに違いないと出陣を諌めますが、慢心した劉邦は怒って彼を投獄します。
冒頓は、さらに自分が北東の上谷郡(河北省張家口市)にいるというフェイクニュースを流し、漢軍を誘き寄せます。晋陽にいた劉邦はこれを聞いてころっと騙され、少数の騎兵を率いて急いで出撃すると、雁門郡平城県(大同市)へ到達し、その北東の白登山(馬鋪山)を越えようとします。するとたちまち匈奴の伏兵が四方を取り囲み、劉邦は外との連絡も取れない絶体絶命のピンチに陥ります。この伏兵は東西南北に10万ずつ、五行に対応して西方が白馬、東方が青馬、北方が黒馬、南方が赤馬で統一されていたといいますが、ピンチを誇張するための伝説でしょう。また旧暦10月ですから新暦では11月頃で、戦場では雪が降り始め、漢兵の2割から3割が凍傷にかかり、指を落としたといいます。
幸い、劉邦には謀臣の陳平が付き従っていました。彼は密かに冒頓の閼氏(妃)に賄賂を贈り、こう伝えます。「漢王は単于に命乞いをし、美女を贈ろうとしています。そうなれば単于は漢の美女に夢中となり、あなたは遠ざけられますぞ」。閼氏はころりと騙され、冒頓にこう進言します。「漢の領地を手に入れても、そこに住むわけにもいかないでしょう。君主同士は互いを苦しめないと言いますし、漢王にも神霊の加護があるのでは」。また王黄や趙利らは冒頓と約束した期日になってもやって来なかったので、冒頓は彼らの裏切りを疑い、包囲から七日目に一角を解いてやりました。何の条約も結ばず解放するわけもありませんから、匈奴と漢の間にはこの時になんらかの条約が結ばれたのでしょうが、史記は黙して語りません。
劉邦は濃霧に乗じて急ぎ脱出を図りますが、陳平と夏侯嬰は「匈奴は兵の損傷を嫌います(人口が少ないため)。こちらの兵士全員に、弓や弩をいっぱいに引き絞らせて(「満を持して」)外へ向け、2本の矢をつがえさせたままゆっくり進みましょう」と進言します。劉邦はこれに従い、どうにか本隊と合流して平城まで戻りました。そして南東に山を越えて趙国(河北省邯鄲市)に向かい、趙王の張敖に八つ当たりしたので、趙の家臣らは腹を立てて劉邦を殺そうとしますが、趙王になだめられました。その後も匈奴の侵略はやまず、漢は将軍の樊檜を派遣して長城の内側までは回復します。しかし12月には代王劉仲が匈奴の圧力に負け、領国を捨てて洛陽に逃げました。
和平締結
前200年2月、劉邦は趙から洛陽を経て首都・長安に帰還します。劉仲は死罪に当たりましたが、実兄ゆえ処刑するには忍びず、侯に降格しました。また劉邦は劉敬を釈放して謝罪し、匈奴への対策を諮問します。すると劉敬はこう進言しました。「匈奴を武力で屈服させることは不可能です。仁義や道徳を説いても聞き入れますまい。唯一の解決策は、陛下がご自身の嫡出の公主(姫君)を匈奴の単于に嫁がせ、莫大な結納品を贈り、季節ごとに豊富な贈り物をし、弁の立つ使者を送って講和することです。さすれば単于は喜んで彼女を正妃とし、単于は陛下の娘婿となります。彼女が息子を産めば、彼は次の単于となり、陛下は単于の母方の祖父となられましょう」
劉邦には正妻の呂后との間に一人娘がおり、趙王の張敖に嫁いでいましたが、さっそく劉邦は彼女を離縁させて冒頓単于に贈ろうとします。しかし呂后は猛反対し、趙国が離反する恐れもあったので取りやめ、皇族の娘を選んで単于に嫁がせることにしました。使者には発案者の劉敬が立ち、両帝国は和平条約を締結します。この時の条約は「匈奴と漢は対等の隣国であり、兄弟となって戦争をやめる(匈奴が兄で漢が弟)」「長城の北は匈奴の単于、南は漢の天子が治め、互いに侵犯しない」「長城の関所で交易を行う」「漢は毎年米・麹・絹・綿・生糸・黄金などを規定の数量だけ匈奴に贈る」「単于が代替わりするごとに漢は公主を嫁がせる」といったもので、漢がひたすら平身低頭して匈奴に出費し、侵略をやめさせるものでした。ペルシアとスキタイの関係よりもだいぶ情けない状態です。
また劉敬は匈奴から帰還すると進言しました。「匈奴のうち河南(オルドス)の白羊王と楼煩王の勢力圏から、わが長安までは700里(315km、西安市から延安市までが300km)。秦中(関中、陝西盆地)まで軽騎兵で一昼夜の距離です。陛下は関中に都を置いていますが、人口は少なく、北は匈奴に近く、東はもとの六国の地にかつての王族が大勢います。関中に東の王族・名家・豪族を大勢移住させますれば、北は匈奴を防げますし、東で反乱があっても彼らを用いて東征できます」。劉邦はこれを採用し、十余万人を関中へ移住させました。匈奴は遠くにいるのではなく、首都長安や陝西盆地のすぐ北に迫っていたのです。
代燕反乱
これでしばらくは収まりましたが、前197年8月には陳豨が代で反乱し、匈奴と手を結んで代王と称しました。彼は趙国の将軍として北辺の防衛にあたっていましたが、韓王からの使者を招き入れて造反したのです。劉邦は代を攻めるため再び趙へ赴き、燕王盧綰も東から代を攻撃しました。前195年に陳豨は討ち取られ、援軍に来た韓王も討ち取られて反乱は平定されます。
しかしこの時、捕虜の一人が「燕王盧綰も匈奴に通じていた」と密告しました。調査の結果、盧綰の将軍の張勝は匈奴の使者臧衍を受け入れ、「燕国が存続しているのは反乱を抑えるために過ぎず、代が滅べば次は燕が取り潰されます」と唆されていました。盧綰もこれを聞き入れ、戦争をわざと長引かせていたことが判明します。劉邦は激怒して燕に討伐軍を派遣し、盧綰は家族や騎兵数千を率いて脱出し、匈奴との国境近くに身を潜めます。同年4月に劉邦が崩御すると、盧綰はそのまま匈奴へ亡命し、東胡王に封じられましたが翌年逝去しました。燕国には皇族の劉建が封じられますが、このゴタゴタで燕人の満が朝鮮(平壌)に亡命し、朝鮮王国を建てています。
『魏略』には「衛満」とし、箕子朝鮮を乗っ取ったと記していますが、史記にはないので後世の伝説でしょう。彼は朝鮮半島(朝鮮・真番)と漢(燕)の間の交易を牛耳り、おそらく匈奴とも友好関係を結んで東方に割拠したので、漢は手が出せず、属国として承認しました。
呂后返書
漢帝劉邦(太祖高皇帝、高祖)が崩御した後、帝位を継いだのは息子の劉盈(恵帝)でしたが、彼の実母である呂后は皇太后として実権を握ります。趙王の張敖は家臣らが劉邦暗殺計画を目論んだかどで王位を失い、諸侯に落とされていましたが、呂后は彼と自分の娘の間に生まれた張氏を恵帝の皇后に立て、血縁を強化します。また趙王の劉如意は劉邦が別の女に産ませた子だったので、嫉妬した呂后は彼を毒殺し、その母の手足を切って目と耳と喉を潰し、便所に投げ入れて「人豚」と呼んだといいます。恵帝はショックで酒色に耽った末に病死し、呂后は傀儡の天子を立てて実権を握り続け、一族を高位高官につけて権力基盤を強化しました。しかし国内では比較的善政を敷いており、人々はやっと訪れた平和をありがたく享受したといいます。
さて『漢書』匈奴伝によれば、冒頓は呂后に無礼な親書を送っています。曰く「私は沼沢地に生まれ、牛馬の棲む平野の中で成長しましたが、しばしば漢の辺境に至り、中国に行こうと願っています。陛下は最近夫を亡くされたとか。私も最近妻を亡くし、独り身になりました。両主が楽しまないのは良くないことです。お互いの持ち物を交易して、無いものを補いあいましょう」。呂后は激怒し、樊檜は「10万の兵を下されば匈奴の国内を荒らしまわってきます」と自薦しましたが、季布はこう諌めました。「樊檜を斬るべきです。高祖さまは32万の兵を率いて遠征されましたが、平城で匈奴に包囲されて苦しまれました。その時は樊檜も上将軍として出征していましたのに、高祖さまをお救いすることができませんでした。10万の兵で勝てるなど妄言です。だいたい夷狄は禽獣のようなもので、満ち足りれば喜んでおべっかをいい、不足すれば怒って悪口を言うだけです」
呂后は納得して怒りを収め、大謁者の張澤を遣わして親書を届けさせました。曰く「単于は弊邑(我が国)を忘れられず、親書を賜ったことに恐れいります。私めは年取って気も衰え、髪も歯も抜け、歩くのもおぼつかず、単于のおそばに侍るには不足と存じますので、ご容赦下さい。四頭立ての馬車2両に馬をつけてお贈り致します」。冒頓は使者から親書を受け取ると「わしは中国の礼儀を知らぬが、陛下にはご容赦頂いたようだ」と言い、馬を贈って和親を結んだといいます。これは史記にも見える話ですが、両者の親書の内容までは史記にはないので、漢書の創作かもしれません。冒頓単于も別に呂后と再婚しようという意志はなかったでしょう。
実際の両国の関係を見てみると、前192年春に恵帝は宗室の女子を公主とし、匈奴の単于に嫁入りさせています。劉邦の「三年の喪」が開け、皇帝が代替わりしたので贈ったのでしょう。それから10年ほどは目立った戦闘がなく、漢と匈奴は平和に共存しました。ただ前182年6月、匈奴が隴西郡の狄道県(甘粛省定西市臨洮県)を攻撃し、翌年12月にも侵入して2000人余りを略取しています。前180年、盧綰の妻子らは密かに匈奴から脱出して漢に戻りました。呂后は重病でしたが彼らを赦免し、7月に崩御しました。
西域平定
呂后の崩御とともに呂氏は周勃らによって誅殺され、代王劉恒が擁立されて皇帝に即位します(文帝)。彼は以前と同じ条件で匈奴と和約し、減税や節約財政によって民力を休養させ、名君と讃えられました。ただ前177年5月には匈奴の右賢王が「漢の官吏に侮辱された」と称して北地郡(寧夏付近、もとの義渠の地)に侵入し、河南(オルドス)を攻撃しました。文帝は大軍を派遣して撃退させ、自ら太原郡まで行幸して論功行賞を行いますが、東方で反乱が起きたので急ぎ帰還し、対匈奴の軍勢も撤退させました。
冒頓は帰還した右賢王を西方に赴かせ、月氏を討伐させます。もともと単于が南を向いた時、左手側(東)にいるのが左賢王、右手側(西)にいるのが右賢王ですから、彼を西方へ派遣するのは理にかなっています。右賢王は月氏を打ち破った上、楼蘭・烏孫・呼掲など26カ国を平定し、匈奴の版図は西へ大きく広がりました。楼蘭とはタリム盆地北東部にある有名なオアシス都市で、他の26カ国もタリム盆地などの「西域」諸国でしょう。月氏は甘粛省西部と青海省、新疆ウイグル自治区に及ぶ領域を緩く支配していた(交易網を持っていた)わけです。烏孫はのちジュンガル盆地に遷りますが、この頃はまだ東にいたようですし、呼掲は「ウイグル」の祖ではないかとも言われます。しかし月氏はまだ滅ばず、甘粛西部や青海省に陣取っていました。
前176年6月、冒頓は漢に書簡を送り、前の事件を謝罪してラクダ(フタコブラクダ)1頭、騎馬2匹、馬車2台を贈るとともに、右賢王に「罰として」西域諸国を平定させたことを伝え、漢に脅しをかけます。前174年、漢は匈奴に丁重な使節を送り、豪奢な衣服や錦の織物、多くの絹や黄金の帯などを贈って和解しました。両国の贈り物は全く釣り合っていませんが、これが漢の置かれた状況です。漢としては「蛮夷」に対して見栄を張り恩徳を施したつもりでも、受け取る側や諸外国からはどうでしょうか。
同年、冒頓単于は在位36年にして世を去りました。即位時に30歳とすれば66歳、20歳とすれば56歳で、当時なら年齢に不足はありません。息子の稽粥(けいしゅく/けいいく、上古音kiː ʔljuɡ)が跡を継ぎ、老上と号しました。古テュルク語で「老人」を意味するes-ku、あるいはトカラ語Bのktsaitstse(老人)の音写が稽粥で、老上はその漢訳でしょうか。年齢的にまだ老人というほどでもないので、長寿を祈ってつけたのかも知れません。
現代トルコでは冒頓を「メテ(Mete)・ハン」と呼び、古代トルコ人の英雄として尊崇しています。また『集史』にある伝説上のテュルク人の始祖オグズ・ハンとも同一視されますが、彼はノア(ヌーフ)の子ヤペテ(アブルジャ)の曾孫で、オスマン朝の祖先カユはその孫だといいます。
◆Ceddin◆
◆Deden◆
冒頓単于の活躍により、匈奴は大きく勢力を広げ、漢を服属させる大帝国となりました。次回は匈奴の習俗と国制について見ていきます。
【続く】
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