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いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
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#騎馬遊牧民

【つの版】ウマと人類史EX06:馬犠牲祭

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  欧州、中東、中央ユーラシアの次は、インドおよび南アジアです。ウマはこれらの地域においても重要な役割を果たしています。 ◆双◆ ◆神◆ 印度入馬 ウマは中央ユーラシアで家畜化され、アフガニスタンを通ってインド亜大陸に持ち込まれました。インダス文明ではコブウシが主要な家畜で、ウマが利用されていた形跡はありませんが、インダス文明が衰退した後に馬車と二輪戦車を操るアーリヤ人が南下し、傭兵や掠奪者として現れ始めます。  アーリヤ人と

【つの版】ウマと人類史EX05:五祖牝馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  中世ヨーロッパのウマはこれぐらいにして、次は中央ユーラシアや中東、インドや東アジアのウマについて、改めてざっくり見ていきましょう。これら諸地域においても、ウマは人類の社会を背負う極めて重要な家畜であったことは、これまで長々と見てきたとおりです。 ◆うま◆ ◆よん◆ 中亜馬称 中央ユーラシアの遊牧民は、主に羊や山羊を飼育します(湿潤地帯では牛も)。徒歩では一人で羊100頭ほどしか管理できませんが、騎馬なら一人で1000頭以上を

【つの版】ウマと人類史EX01:古代馬種

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  近代史を追うのもここらで一区切りとしましょう。ここから本題に戻り、ウマと人類の関わりについて掘り下げて行こうと思います。  紀元前3500年頃、人類はおそらくウクライナ付近で野生のウマを家畜化し始めました。当初は食用や運搬、荷車牽引用でしたが、前2000年頃にスポークつき車輪が発明され、軽快な二輪戦車(チャリオット)が開発されると、ウシより脚の速いウマが牽くことで人類は卓越した機動戦力を手にします。そして、ついにはウマそのものに

【つの版】ウマと人類史:近代編28・回民蜂起

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  19世紀中頃、世界は英国とロシアの両大国がしのぎを削る中で揺れ動いていました。欧州ではクリミア戦争に続いてイタリア統一戦争や普墺戦争が、アメリカでは南北戦争が、日本では長州征伐が、チャイナでは太平天国の乱とアロー戦争が、インドでは英国の支配に対する大反乱が勃発しています。次はクリミア戦争後のオスマン帝国とロシア、その周辺を見てみましょう。 ◆回◆ ◆転◆ 講和停戦 1856年3月30日、クリミア戦争の講和条約である「パリ条約

【つの版】ウマと人類史:近代編12・壮大博奕

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  陸の帝国ロシアと、海の帝国である英国は、ナポレオン戦争終結後から宿命的な対決状態にありました。いわゆる「グレート・ゲーム」です。これは「東側」と「西側」の対立として19世紀・20世紀を経て現代にまで続いています。ここで欧州やオスマン帝国を離れ、さらに東へ向かうとしましょう。 ◆烏◆ ◆賊◆ 真珠帝国

【つの版】ウマと人類史:近代編07・帝国維新

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  フランス革命からナポレオンの時代を見てきましたが、そろそろ東へ戻りましょう。この頃のオスマン帝国やイラン、アフガニスタン、中央アジアなどはどうなっていたのでしょうか。 ◆嵐◆ ◆嵐◆ 宦官皇帝 まずはイランから見ていきましょう。17世紀後半から18世紀末にかけて、オスマン帝国は欧州列強やロシアの侵略に苦しめられ、大きく領土を削られました。属国であるクリミア・ハン国すら奪われ、黒海やエーゲ海には帝都イスタンブールを通過してロシ

【つの版】ウマと人類史:近代編・インデックス

 ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。当初は近世後期編としましたが、どうせ近代も含むのでまとめて近代編に改めます。日本はまだ江戸時代ですが、フランス革命以後なら近代と呼んでも差し支えないでしょう。いわゆる「長い19世紀(1789-1914年)」というやつです。  つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、

【つの版】ウマと人類史:近代編03・埃及遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  北イタリア諸国を平定して宿敵オーストリアを屈服させ、フランスの英雄となったナポレオンでしたが、オーストリアは英国やプロイセンと協力してフランスを再び囲い込みます。苛立つナポレオンは英国の交易ルートを脅かすため、オスマン帝国領のエジプトへ侵攻しました。 ◆埃◆ ◆及◆ 近世埃及

【つの版】ウマと人類史:近代編01・汗国併合

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。「近世後期編」としていましたが、どうせ近代も含むのでまとめて近代編と改めます。日本はまだ江戸時代ですが、18世紀後半以後ならまあ近代としてもいいでしょう。  1755年、ジュンガルは清朝に滅ぼされましたが、中央ユーラシアの遊牧諸政権はまだまだ健在です。しかしジョチ・ウルスの盟主であったクリミア・ハン国は、ロシア帝国の圧力によっていまや滅亡寸前でした。 ◆Let's◆ ◆Rock◆ 汗国由来

【つの版】ウマと人類史:近世編37・準部滅亡

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  イラン高原から中央アジアに視線を移すと、1755年にジュンガルが清朝に征服され滅亡しています。中央ユーラシア最後の遊牧帝国とも呼ばれるジュンガルは、どのように滅んだのでしょうか。 ◆準◆ ◆部◆ 準部繁栄  ジュンガルについておさらいしておきましょう。1637年にジュンガル部の長ホトゴチンがオイラト部族連合の盟主となり、その子ガルダンが1676年にダライ・ラマによりオイラトのハンとなりました。彼はイリ地方のグルジャを首都とし

【つの版】ウマと人類史:近世編36・印度遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1736年3月、サファヴィー朝イランの摂政ナーディルは国王アッバース3世を退位させて自ら王位につき、アフシャール朝を開きました。ロシアやオスマン帝国と条約を結び、有利な条件で国境を画定したのち、彼は東方へ目を転じます。狙うはカンダハール、そしてムガル帝国です。  なお国号イラン(エーラーン・シャフル「アーリヤ人の地」)はサーサーン朝以来の自称ですが、ペルシア(パールサ)はイラン高原南西部のファールス地方を発祥の地とするアケメネス

【つの版】ウマと人類史:近世編35・摂政登極

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1722年、パシュトゥーン人のギルザイ部族連合(ホータキー朝)の攻撃により首都イスファハーンが陥落し、サファヴィー朝は事実上滅亡しました。しかしタフマースブ王子らが各地で抵抗を続け、ロシアとオスマン帝国が混乱に乗じてペルシアに侵攻します。この時タフマースブに味方したのが、勇猛果敢なテュルク系騎馬遊牧民を率いるナーディルでした。 ◆伊◆

【つの版】ウマと人類史:近世編34・波斯分割

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1683年、第二次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は、勢いに乗った欧州連合軍によって反撃を受け、多くの領土を失います。しかしなおも大国として勢力を保ち、欧州諸国とも友好関係を結んで繁栄しました。この頃、東方の宿敵サファヴィー朝はどうなっていたのでしょうか。 ◆怒りの◆ ◆アフガン◆ 薩非波斯

【つの版】ウマと人類史:近世編33・領土割譲

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1683年、第二次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は、勢いに乗った欧州連合軍によって反撃を受け、多くの領土を失います。スレイマン大帝の遠征から160年余り、ついに東西両者の力関係が逆転する時が来たのです。 ◆I See◆ ◆Fire◆ 神聖同盟