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【つの版】ウマと人類史EX05:五祖牝馬
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
中世ヨーロッパのウマはこれぐらいにして、次は中央ユーラシアや中東、インドや東アジアのウマについて、改めてざっくり見ていきましょう。これら諸地域においても、ウマは人類の社会を背負う極めて重要な家畜であったことは、これまで長々と見てきたとおりです。
◆うま◆
◆よん◆
中亜馬称
中央ユーラシアの遊牧民は、主に羊や山羊を飼育します(湿潤地帯では牛も)。徒歩では一人で羊100頭ほどしか管理できませんが、騎馬なら一人で1000頭以上を管理可能で、これにより遊牧のみで生活可能になったのです。それについては長々と述べて来ましたので繰り返しません。
モンゴル語には多種多様なウマの呼び名があります。牡馬だけでも14歳までを18通りに呼び分け、性別や性格、走り方、毛色なども加えて組み合わせれば少なくとも200種類以上にもなり、遊牧民はそれを記憶して呼び分けるといいます。モンゴル以前の遊牧民もそのように呼び分けていたことでしょうし、印欧諸語でもアラビア語でもウマの呼称は多種多様です。ここではそれらを見ていきます。
ヤムナ文化集団(印欧祖語話者)から早期に分岐したと思われるアファナシェヴォ文化集団(トカラ祖語話者)は、南シベリア、ジュンガリア、タリム盆地などに移動し、漢文献でいう「月氏」などの先祖となりました。トカラ語でウマを指すyakwe/yakは、ヒッタイト語ekkus、ラテン語equusと同じく印欧祖語h₁éḱ-wos(速いもの、ウマ)の古形を伝えます。彼らに続いてアンドロノヴォ文化集団≒アーリヤ人(インド・イラン諸語話者)が内陸ユーラシアに広がり、ウマを指す語aspa/aswaを各地に広めました。
スラヴ諸語では、ウマをコニ(koni)と呼びます。スラヴ祖語kobyla(牝馬)に遡るらしく、ラテン語caballus、ギリシア語kaballes、ペルシア語kaval/kabahと関係がありそうです。ウラル諸語のうちフィン祖語ではhepoi(ゲルマン祖語ehwazからの借用か)ですが、ハンガリー(マジャル語)ではlóといい、トカラ語luwo(動物)に起源があるともいいます。
テュルク諸語でウマを指すのはアト(at,hat)です。これはモンゴル語アドー(addu/群れ)とともに、ツングース祖語abdu(家畜の群れ)に遡るものと思われますが、単体のウマもアトと呼びます。
モンゴル語では総称としてのウマをモリ(mori)といいます。厳密には、これは騸馬(せんば/去勢された牡馬)のことです。ウマは牡馬を中心として牝馬が群れを作る(ハーレム)ため、牡馬が増え過ぎれば争いとなり、群れが分散してしまいます。そこで遊牧民は古代から種牡馬(英語stallion,テュルク諸語at-gir,モンゴル語azraga)以外の牡馬を去勢して群れを制御しやすくし、大人しい騸馬を乗用馬や軍馬としたのです。6歳頃に去勢するか種牡馬とするか分けられます。人の男性を去勢したのが宦官で、これも世界各地に広まっています。モリは漢語「馬(ma)」と関係がありそうですが、それに関しては東アジアの項に譲りましょう。
牝馬はテュルク諸語でキスラク(kïsrak)、モンゴル語でグー(güü)といいます。馬の乳を発酵させたもの(馬乳酒)をテュルク諸語でクミス(kumis)、モンゴル語でアイラグ(ajrag)ないしツェゲー(cegee/白いもの)といい、生乳を撹拌分離してバターやクリームとしたり、チーズを作ったりもします。馬乳は栄養豊富ですが羊や牛より乳量が少なく、飼育数も羊の方が多いため量は採れません。しかしヘロドトスはスキタイがウマの乳を搾って飲むことを報告しており、非常に古くから馬乳が飲まれて来ました。
五祖牝馬
アラビア語ではウマをハイル(kayl/自由な者)、種牡馬をヒサーン(hisan/[陰部が]守られた者)、牝馬や騸馬をファラス(faras/[陰部が]切り裂かれた者)といいます。小柄なウマすなわちポニーはアラビア語でシーシー(sisiyy)といいますが、これはアラム語susya、ヘブライ語sus、フェニキア語sys、アッカド語sisum、古代エジプト語ssmに遡り、ウマそのものや種牡馬を指しました。語源は不明ですが、ウマの家畜化が行われた北カフカース方面から印欧系の言葉が訛って伝わった可能性はあります。種牡馬は乗用とされず、乗用馬や軍馬はもっぱらファラスと呼ばれます。
アラブのベドウィン(遊牧民)は優れたウマの血統について何十世代も記憶し、文字なしに口伝しました。人間の系譜や法律も口伝で、文字はありましたが信用されなかったのです。彼らの伝説によれば、最初のウマはアッラーフが南風から創造し、その毛色は栗毛であったといいます。またアラビア人の先祖イスマーイール(アブラハムの子イシュマエル)の時代に、天使ジブリール(ガブリエル)が渦巻く雷雲を鎮めてウマに変えたともいいます。スライマーン(ソロモン)王が南アラビアのシバの女王ビルキースから優れた牝馬を贈られた時、お返しに優れた種牡馬を贈ったとの伝説もあります。
また別の伝説によれば、預言者ムハンマドは砂漠を長らく旅した時、オアシスを求めてウマの群れを解き放ちましたが、彼が群れを呼び戻すと5頭の牝馬だけが反応し、主人の命令に従って駆け戻ってきました。喜んだムハンマドは彼女たちをアル・ハムサ(5)と呼び、これがベドウィンに伝わるアラブ馬の5つの血統の始祖になったといいます。彼女たちの子孫とされるウマは「アシール(純粋)」と呼ばれ、現代も僅かに存在しています。
イスラム勢力の拡大以前から、いわゆる「アラブ」や「バルブ」のウマはアラビアや北アフリカ各地に存在し、ベドウィンによって用いられていました。しかしアラビア半島において最も重視された家畜はラクダでした。預言者ムハンマドがマッカからマディーナに逃げ込んだヒジュラ(聖遷)においても、ウマではなくラクダに乗って行ったと伝えられますし、彼がマッカと戦った時も両軍ともウマ騎兵よりラクダ騎兵の方が多くいます。イスラム勢力が大規模にウマを運用するようになるのは、ムハンマド逝去後にアラビア半島から出てペルシア帝国を征服してからです。
伝説によると、ムハンマドはある夜にブラーク(Buraq)という白馬に載せられてエルサレムへ飛翔し、そこから昇天して天国に赴き、多くの預言者や天使、アッラーフにまみえたのち地上に帰還したといいます。ブラークは「美しい顔」を持ち、「ロバより大きくラバより小さい」と伝えられ、地上のウマではありませんが、ケルビムのような神獣や天使のたぐいでしょう。アラビア語でburaqは「閃光」を意味し、またたく間に地上や天国を駆け抜ける素早さを表しますが、ペルシア語barag(乗り物)が訛ったのだとする説もあります。両方の意味をかけあわせたのでしょうか。
中東騎兵
ペルシアには長い騎兵運用の歴史があり、アスワーラーン(Aswaran/ウマに乗る者、単数形Aswar/Asbar)と呼ばれる騎兵部隊がいました。弓騎兵から重装騎兵まで様々で、ローマやエフタル、突厥の軍隊とも渡り合っています。ペルシアがイスラム勢力に征服されると、降伏した彼らはアサウィラと訛って呼ばれ、各地の征服戦争に従事し、ウマイヤ朝でも活躍しました。彼らが乗っていたウマは、アラブやバルブよりはタークに近かったでしょう。
かくてイスラム世界にはペルシアの先進的なウマの技術や文化が持ち込まれます。また9-10世紀には東ローマからウマに関する様々な書物がアラビア語に翻訳され、馬術は「フルーシーヤ(馬に乗る術)」と翻訳されました。
やがてイスラム世界では騎馬遊牧民の少年を奴隷として購入し、優秀な騎兵(ファリス)として教育するシステムが発達し、彼らはマムルーク(所有された者)と呼ばれるようになります。マムルークたちは大いにフルーシーヤを学び、フルーシーヤは単なる馬術や戦闘技術から、中世西欧の騎士道に相当する精神的な意味合いを持つ言葉ともなります。彼らの出身地からも多くのウマが輸入され、アラブ種やバルブ種と混交しました。そして西欧人は戦争や交易によって、優秀な東洋のウマを手に入れたのです。
◆ウマ◆
◆娘◆
【続く】
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