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#日本刀

【つの版】日本刀備忘録45:山名持豊

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  嘉永元年(1441年)6月、恐怖政治を敷いた将軍・足利義教は赤松満祐らの家来により暗殺され、大名ら数名も死傷しました。満祐らは京都を退去して領国の播磨に戻りましたが、管領・細川持之は義教の子を後継者として擁立し、大名たちに満祐討伐を呼びかけます。 ◆室町◆ ◆無頼◆ 山名持豊 各地の守護大名たちのうち、赤松満祐討伐に乗り気だったのは山名持豊(のち出家して宗峯、宗全)です。山名氏は足利義満の時に一族で11カ国の守護大名となって

【つの版】日本刀備忘録44:嘉吉之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  永享10年(1438年)、室町幕府将軍・足利義教は鎌倉公方・足利持氏を討伐し、翌年には自害に追い込みます。ここに4代90年続いた鎌倉公方は断絶することとなりました。 ◆仁◆ ◆義◆ 結城合戦 義教は自らの幼い次男・義制を新たな鎌倉公方に任じようとしますが、持氏派の残党はこれに従わず、永享12年(1440年)に持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて幕府に反旗を翻します。下総の結城氏朝と子の持朝が首謀者となり、結城城に遺児らを匿って挙

【つの版】日本刀備忘録43:万人恐怖

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  足利幕府第4代将軍・義持が応永35年(1428年)に没すると、幕閣たちの協議の末、くじ引きによって義持の同母弟の義円が後継者に選ばれ、出家の身であったため還俗させられて征夷大将軍となります(足利義教)。しかし鎌倉公方の足利持氏はこれを認めず、関東で不穏な動きを見せます。 ◆室町◆ ◆無頼◆ 足利義教 足利義教は、自らの政治の手本を父・義満に求め、永享3年(1431年)に義持がいた三条坊門第から義満のいた室町第(花の御所)に移

【つの版】日本刀備忘録42:籤引将軍

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  足利義満の子・義持は第4代の征夷大将軍として武家政権を引き継ぎますが、父ほどのカリスマはなく、南朝の残党や関東の諸将らが各地で挙兵し、朝鮮が対馬に侵攻するなど内憂外患に悩まされます。これらは鎮圧されたものの、義持の最大の敵となったのは第4代鎌倉公方の足利持氏でした。 ◆くじびき◆ ◆アンバランス◆ 足利持氏 持氏は足利尊氏の4男・基氏の曾孫にあたり、義持より12歳年下です。父の逝去により鎌倉公方に就任した応永16年(1409

【つの版】日本刀備忘録41:足利義持

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  室町時代の最盛期を築いた足利義満の没後、天下は再び乱れ始めます。各地の守護大名や鎌倉公方は求心力を失った室町幕府に従わなくなり始め、ついには応仁・文明の乱を経て戦国時代へ突入することになるのです。 ◆京都◆ ◆動乱◆ 足利義持 足利義満の子・義持は、応永元年(1394年)末に9歳で征夷大将軍の職を父から譲られましたが、義満は応永15年(1408年)に没するまで実権を握り続けました。また義持の異母弟・義嗣を14歳で参議(公卿)

【つの版】日本刀備忘録40:阿弖流為

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  南北朝時代に成立した『太平記』、室町時代に成立した『鈴鹿の草子』や御伽草子『立烏帽子』などによれば、坂上田村丸/稲瀬五郎坂上俊宗は伊勢の鈴鹿山へ派遣され、立烏帽子/鈴鹿御前なる女盗賊と戦ったといいます。また彼は高丸や大嶽丸とも戦うことになりますが、その経緯についてはいくつかのバリエーションがあります。 ◆北◆ ◆天◆ 田村草子『鈴鹿の草子』より後に成立したと思しい『田村の草子』上巻では、日龍丸=俊仁将軍の生涯と、その子・田村

【つの版】日本刀備忘録39:大嶽討伐

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  南北朝時代に成立した『太平記』、室町時代に成立した『鈴鹿の草子』や御伽草子『立烏帽子』などによれば、坂上田村丸/稲瀬五郎坂上俊宗は伊勢の鈴鹿山へ派遣され、立烏帽子/鈴鹿御前なる女盗賊と戦ったといいます。また彼は高丸や大嶽丸とも戦うことになりますが、その経緯についてはいくつかのバリエーションがあります。それぞれを見ていきましょう。 ◆Saahore◆ ◆Baahubali◆ 伐阿黒王『太平記』には田村将軍が鈴鹿山で「鈴鹿の御前

【つの版】日本刀備忘録38:討悪路王

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  平安時代初期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂は、国の北を守る軍神・毘沙門天の化身として崇められ、武家が台頭すると武士の理想像として称えられます。また彼は各地の鬼神を退治したとの伝説が広められ、史実から離れて独り歩きし始めます。 ◆鬼◆ ◆丸◆ 藤原利仁 坂上田村麻呂が薨去してから100年あまり後、延喜15年(915年)頃に鎮守府将軍に任じられたのが藤原利仁です。先祖の魚名は奈良時代末期に光仁天皇を擁立して朝廷の実権を

【つの版】日本刀備忘録37:鈴鹿御前

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  平安時代初期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂は、国の北を守る軍神・毘沙門天の化身として崇められ、武家が台頭すると武士の理想像として称えられます。また彼は各地の鬼神を退治したとの伝説が広められ、史実から離れて独り歩きし始めます。 ◆鈴◆ ◆鹿◆ 鈴鹿御前 1370年頃に編纂された軍記物語『太平記』にも、坂上田村麻呂伝説が垣間見えます。例の源氏重代の宝剣「鬼切(鬚切)」について、『平治物語』では奥州の住人・文寿の作とし、

【つの版】日本刀備忘録36:悪事高丸

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  奈良や京都の遥か東北=鬼門の方角には、広大な東北地方(陸奥国と出羽国)があり、古来蝦夷が住んでいました。平安時代初期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂は、国の北を守る軍神・毘沙門天の化身として崇められ、武家が台頭すると武士の理想像として称えられます。また彼は各地の鬼神を退治したとの伝説が広められ、史実から離れて独り歩きし始めます。 ◆諏◆ ◆訪◆ 悪事高丸 延文元年(1356年)、諏訪円忠により京都で編纂された『諏方大

【つの版】日本刀備忘録35:田村将軍

 ドーモ、三宅つのです。久しぶりに前回の続きです。  酒呑童子の出生地が越後とされた理由は、結局よくわかりません。八岐大蛇は高志の出身ですし、伊吹山や戸隠山からも東北(鬼門)にありますし、現地に伝わっていた「鬼子」の伝説が酒呑童子と結びつけられた、と見るのが妥当なところでしょうか。弥彦山の東北、蝦夷の地にも多くの鬼たちがおり、戸隠山や伊勢の鈴鹿山にも鬼女たちがいたといいます。それぞれの伝説は武士や刀剣とも関わりますので、引き続いて見ていきましょう。 ◆刀◆ ◆剣◆ 田

【つの版】日本刀備忘録34:弥彦山神

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  酒天童子は伊吹山や八岐大蛇、草薙剣と結び付けられ、彼を武士が退治する物語は、武士が正統な朝廷の武力の保有者であることを保証する神話となりました。やがて酒天童子の出生地は伊吹山のさらに東北、八岐大蛇の出身地である高志の国、越後に追いやられていくことになります。 ◆雷◆ ◆鬼◆ 和納異伝 国上寺と弥彦山の東北、越後平野の西寄り、新潟市西蒲区に和納という地名があります。ここは蛇行する信濃川が作り出す低湿地で、『古事記』垂仁天皇条に

【つの版】日本刀備忘録33:九頭龍王

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  酒天童子は伊吹山や八岐大蛇、草薙剣と結び付けられ、彼を武士が退治する物語は、武士が正統な朝廷の武力の保有者であることを保証する神話となりました。やがて酒天童子の出生地は伊吹山のさらに東北、八岐大蛇の出身地である高志の国、越後に追いやられていくことになります。 ◆九頭◆ ◆龍王◆ 国上寺伝 新潟県燕市の西部、弥彦山塊の南部に国上寺という古刹があります。寺伝では和銅2年(709年)に修験道の高僧・泰澄が弥彦神社の託宣を受けて開い

【つの版】日本刀備忘録32:宝剣還海

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  鎌倉時代前期、近江守護に討伐された柏原弥三郎は、後世に伊吹山の神と結び付けられて「変化の者」=鬼となりました。さらに酒天童子や八岐大蛇とも関係付けられ、酒天童子の父であるとの伝説も生じることになります。 ◆龍◆ ◆王◆ 伊吹童子 室町時代には『御伽草子』と総称される物語集において、伊吹山の弥三郎と酒天童子が結び付けられました。ここでの弥三郎は鎌倉幕府の御家人ではなく、代々伊吹山の神を祀る氏族の末裔とされています。しかしこの神