マガジンのカバー画像

つのpedia

645
いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
運営しているクリエイター

#ロシア

【つの版】度量衡比較・貨幣170

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  享和3年(1803年)末、将軍家斉らと対立した老中首座・松平信明は病気を理由に老中を辞職します。後任の老中首座には戸田氏教が就任し、定信・信明の政策を継続していくこととなります。 ◆愛國◆ ◆戦隊◆ 戸田氏教 戸田氏教は宝暦5年(1756年)の生まれで、松平信明より7歳、定信より3歳年長です。初名を松平元起といい、父は田沼意次の上司であった老中首座の松平武元で、系譜を遡れば水戸徳川家に繋がります。のちに元起は美濃大垣藩

【つの版】度量衡比較・貨幣169

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  寛政の改革を行った松平定信は、将軍・徳川家斉とその父・治済の不興を買い、わずか6年で老中首座から失脚します。しかし彼の政策は松平信明ら「寛政の遺老」に受け継がれ、四半世紀近くも継続しました。定信失脚から家斉の薨去までの半世紀ほど(18世紀末から19世紀前半)を、晩年の家斉が大御所となったことから後世には「大御所時代」と呼びます。 ◆東海道中◆ ◆膝栗毛◆ 松平信明 定信の失脚時に家斉は20歳でしたが、父・治済は42歳の

【つの版】度量衡比較・貨幣158

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  七年戦争終結後、英国では産業革命が始まりますが、北米植民地では課税に対する反対運動が高まり武力衝突に発展します。同じ頃、欧州ではフランスにオーストリア(ハプスブルク家)からマリー・アントワネットが嫁ぎ、ポーランド分割が始まろうとしていました。経緯を見ていきましょう。 ◆波◆ ◆蘭◆ 波蘭反乱 ポーランド王国とリトアニア大公国は、1569年に同君連合を結んで広大な連邦を形成し、北はバルト海沿岸から南はカルパチア山脈まで、

【つの版】度量衡比較・貨幣153

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  英国・ハノーファーと結んだプロイセンに対し、シレジア奪還を図るオーストリアはフランス・ロシアと手を結びます。両陣営の戦いは、英仏が植民地を持つ北米やインドも巻き込んで世界規模の大戦に発展しました。 ◆英◆ ◆国◆ 大王窮地 1757年末、英国・ハノーファー・プロイセン連合は苦境にありました。インドでは英国が親仏派のベンガル太守を倒して親英派にすげ替えたものの、北米植民地では英国がフランスと先住民の連合軍に押され、欧州で

【つの版】度量衡比較・貨幣148

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  スペイン継承戦争の後、フランスはスペイン・オーストリアを牽制するため英国と同盟を結びました。しかしフルーリー枢機卿のもと順調に国力を回復するフランスを諸国は脅威とし、英国はオーストリアと接近し始めます。 ◆波◆ ◆蘭◆ 金権政治 1727年に英国王ジョージ1世が崩御し、子のジョージ2世が即位しますが、「首相」こと第一大蔵卿のウォルポールは王室費を80万ポンドに引き上げてキャロライン王妃の歓心を買い、問題なく留任しました

【つの版】度量衡比較・貨幣132

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  1713年にスペイン継承戦争が終結し、1715年にルイ14世が崩御すると、英国はフランスやハプスブルク家、ポルトガルと手を組んでスペインを抑え、均衡政策により西欧に平和をもたらします。この頃、東欧はオスマン帝国・スウェーデン・ロシアが覇権を争う激動の時代でした。 ◆Russian◆ ◆Roulette◆ 大帝改幣 西欧でプファルツ継承戦争が終結した頃(1697年)、モスクワ・ロシアの君主ピョートル1世は大使節団を西欧諸

【つの版】度量衡比較・貨幣124

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  江戸幕府を後ろ盾とする松前藩は、寛文9年(1669年)に発生した蝦夷/アイヌの大規模な武力蜂起を鎮圧し、蝦夷地における支配権を確立しました。この頃、蝦夷地の彼方にはロシアの探検隊が出没しています。久しぶりに極東を離れ、ユーラシア大陸の近世における貨幣を見て行きましょう。 ◆行◆ ◆商◆ 赤夷到来 振り返ってみましょう。16世紀末にウラル山脈を越えてシビル・ハン国を征服したモスクワ大公国/ロシアは、シベリアの河川交通を利

【つの版】度量衡比較・貨幣97

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  モスクワ大公国の財政を支えたのは、広大な森林地帯から貢納される毛皮でした。モスクワ・ロシアはこれを求めてウラル山脈の彼方のシベリアまで進出し、海陸を通じて欧州諸国と利害関係を結ぶことになります。 ◆MOS◆ ◆KAU◆ 北東航路 モスクワ大公イヴァン4世(雷帝)は1547年に戴冠式をあげ、国政改革を行って中央集権を進め、1552年10月に隣国カザン・ハン国を征服してヴォルガ川中流域を支配下におさめます。その翌年、英国か

【つの版】ウマと人類史:近代編28・回民蜂起

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  19世紀中頃、世界は英国とロシアの両大国がしのぎを削る中で揺れ動いていました。欧州ではクリミア戦争に続いてイタリア統一戦争や普墺戦争が、アメリカでは南北戦争が、日本では長州征伐が、チャイナでは太平天国の乱とアロー戦争が、インドでは英国の支配に対する大反乱が勃発しています。次はクリミア戦争後のオスマン帝国とロシア、その周辺を見てみましょう。 ◆回◆ ◆転◆ 講和停戦 1856年3月30日、クリミア戦争の講和条約である「パリ条約

【つの版】ウマと人類史:近代編24・亜羅戦争

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1851年に広西省で武装蜂起したキリスト教系カルト教団「太平天国」は、2年のうちに南京を攻め落とし、長江下流域に独立国を建設しました。清朝は必死でこれに立ち向かいますが、各地で呼応した反乱軍にも手こずり、さらに1856年には英国とフランスが戦争を仕掛けてきました。第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争です。 ◆英◆ ◆国◆ 排外運動 アヘン戦争での勝利により、英国は清朝に広州・厦門・福州・寧波・上海を開港させ、香港を割譲させ

【つの版】ウマと人類史:近代編22・印度反乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1853年に始まったクリミア戦争は、ロシアと英仏・オスマン帝国の連合軍による世界大戦でした。戦場はバルカン半島やクリミアにとどまらず、西はバルト海から東は極東にまで及んでいます。 ◆Naatu◆ ◆Naatu◆ 機雷投入 西のバルト海では、北欧のスウェーデンがフィンランドの奪還を目指して対ロシア政策に傾きます。参戦には慎重で武装中立主義を継続したものの、英仏はスウェーデン領ゴットランドを軍事基地として利用し、オーランド諸島に

【つの版】ウマと人類史:近代編21・英露大戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1853年10月、南下を狙うロシア帝国とオスマン帝国との間に何度目かの戦争が勃発します。英国とフランスはオスマン帝国を支援し、世界各地で対ロシア戦争が始まりますが、主戦場の名を取ってクリミア戦争と呼ばれます。 ◆伝◆ ◆説◆ 露土開戦 バルカン半島や黒海沿岸部の帰属を巡って、ロシア/モスクワとオスマン帝国/トルコは16世紀以来何度も刃を交えてきました。かつてピョートル大帝がオスマン帝国の捕虜になるなど苦戦したロシアも、いまや

【つの版】ウマと人類史:近代編20・帝政復活

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  アヘン戦争終結から12年後、日本はアメリカの砲艦外交に屈して開国しました。そしてこの頃、世界も大きな変革期を迎えています。欧州では1848年革命やクリミア戦争、米国では南北戦争、清朝では太平天国の乱が勃発し、その影響は日本にも及ぶこととなります。 ◆三◆ ◆世◆ 欧州革命 欧州ではジャガイモ飢饉や金融恐慌の影響により、1848年から翌年にかけて諸国で革命が勃発していました。フランスでは1830年に成立した立憲王政が打倒されて

【つの版】ウマと人類史:近代編18・攘夷国船

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  19世紀に入ると、日本に対する北からのロシアの圧力はさらに強まり、南からは英国がオランダの植民地を奪って東アジアに迫ってきました。果たして日本はどうなっていくのでしょうか。 ◆攘◆ ◆夷◆ 日本幽囚 文化露寇(1806-07年)やフェートン号事件(1808年)から間もない文化8年(1811年)6月、ゴローニン事件が発生します。これは千島列島の測量調査のため国後島に到来したロシア海軍大尉ゴローニン(ゴロヴニン)が日本の役人に逮