【つの版】度量衡比較・貨幣153
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
英国・ハノーファーと結んだプロイセンに対し、シレジア奪還を図るオーストリアはフランス・ロシアと手を結びます。両陣営の戦いは、英仏が植民地を持つ北米やインドも巻き込んで世界規模の大戦に発展しました。
◆英◆
◆国◆
大王窮地
1757年末、英国・ハノーファー・プロイセン連合は苦境にありました。インドでは英国が親仏派のベンガル太守を倒して親英派にすげ替えたものの、北米植民地では英国がフランスと先住民の連合軍に押され、欧州ではプロイセンが周囲をオーストリア、フランス、ロシア、スウェーデンに囲まれ、不利な状況が続いています。
プロイセンは占領したザクセンを拠点基地化し、英国の支援と鍛え抜かれた軍事力で奮戦しますが、ロシアは傀儡国ポーランドを守るため東プロイセンに再び侵攻し、支配下に置きました。そもそもポーランド王アウグスト3世はザクセン選帝侯なのですから、本国ザクセンも奪還せねばなりません。
1758年4月、英国とプロイセンは改めて英普協定を結び、同盟を強固なものとします。これにより両国は単独で講和しないことを約束し、英国は年67万ポンドの補助金をプロイセンに与え、ハノーファー軍がフランスから奪還したエムデン港に英国軍9000が駐留することになりました。これは七年戦争で初の英国軍の欧州大陸への派遣です。その代わりプロイセンはハノーファー軍に歩兵や騎兵を供出することを期待されます。
プロイセンはまずオーストリアを弱体化させることを狙い、前年末の勝利を生かしてシレジアの要塞シュヴァイトニッツを攻撃し、ついでモラヴィアに侵攻してオルミュッツ(オロモウツ)を包囲します。前者は首尾よく陥落させたものの、オルミュッツ包囲戦は敵軍に補給路を絶たれて失敗し、6月にプロイセン軍はボヘミアに撤退します。ライン川戦線では英国・ハノーファー・プロイセン連合軍がフランス軍を撃退しますが、東からはロシア軍4万余が動き出し、ベルリンに迫ろうとしていました。
プロイセン軍はボヘミアからも撤退を余儀なくされ、急いで北上し、ベルリンの東100kmにあるツォルンドルフ(現ポーランド領サルビノヴォ)でロシア軍の背後に追いつきます。両軍は凄惨な戦闘の末に双方が万を超える死傷者を出し、プロイセンはかろうじてロシア軍を撤退に追い込みました。スウェーデンやオーストリアはこれに乗じて攻勢に出ますが、プロイセン軍は疲労困憊しながらも迎撃して領地を守り抜きます。しかしその後もロシアとオーストリアの攻撃は激しく、プロイセン軍はしばしば敗北を喫し、1760年10月にはオーストリア軍が再びベルリンを占領しています。
奇跡之年
英国は欧州での戦争をプロイセンに大部分肩代わりさせつつ、フランスと世界各地で戦いを繰り広げていました。フランスは北米植民地に援軍を派遣しようとしますが、英国艦隊は大西洋側でも地中海側でもフランスの港を海上封鎖し、これを防ぎ続けます。支援を失ったフランス領北米は激しく抵抗しますが、7月にルイブール砦が陥落し、ケベックも危うくなります。ブルターニュでは9月にフランス軍が上陸した英国軍を撃破したものの、海上封鎖は突破できず、経済的に打撃を被り続けます。
1758年5月、英国は西アフリカのフランス領セネガルへ少数の艦隊を派遣し、サン=ルイ港を無血占領します。戦利品は数十万ポンドにおよび、大量の天然ゴムも持ち帰られ、奴隷貿易の拠点を失ったフランスは大きな経済的打撃を被ります。味を占めた英国は近くのゴレ島やガンビア、カリブ海にも艦隊を派遣し、フランスの通商を破壊にかかります。
これに対し、フランスは1758年12月に英国の南インドにおける拠点マドラスを襲撃します(第三次カーナティック戦争)。英国軍の大部分はベンガルに遷っており手薄でしたが、現地住民の傭兵とともによく持ちこたえ、翌年2月にはベンガルから援軍が到着して、フランス軍を撤退に追い込みます。
プロイセンの苦境とは対照的に、1759年は英国にとって連戦連勝の「奇跡の年」となりました。マドラスでの勝利に加え、5月にはカリブ海のグアドループ島を占領し、7月にはフランスが英国本土侵攻のためノルマンディー地方のル・アーヴルに集結させていた輸送船団が英国艦隊の艦砲射撃を受けて破壊され、8月には英国・ハノーファー・プロイセン連合軍が北ドイツのミンデンでフランス・ザクセン連合軍に勝利し、ハノーファーへの侵攻を阻みました。トゥーロンから出港したフランス艦隊も撃滅され、北米ではカリヨン砦とケベックが陥落しました。さらに1760年にはモントリオールが、1761年にはインドにおけるフランスの拠点港ポンディシェリが陥落します。
西葡参戦
劣勢に追いやられたフランスは、同じブルボン家のよしみでスペインに助けを求めました。スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世の子フェルナンド6世は中立政策をとり、内政に尽力して国力を立て直しましたが、彼が1759年に崩御すると異母弟のナポリ・シチリア王カルロス3世がスペイン王位を継承していました。彼は先代の中立政策をやめ、1761年8月にフランス王ルイ15世と家族同盟を締結します。英国が世界の海を制覇することになれば、海上帝国であるスペインの利権も脅かされるという判断です。
英国では1760年10月にジョージ2世が崩御し、子のジョージ3世が即位しています。彼は英国で生まれ育ち、ハノーファーとは疎遠でしたが、寵臣のスコットランド貴族ビュート伯ジョン・ステュアートの影響でホイッグ党による政党政治を嫌っており、王党派のトーリー党を引き立てて国王の権力を取り戻そうとしました。ビュート伯は国王宮内官・北部担当国務大臣に取り立てられて事実上の首相となり、主戦論に燃えるニューカッスル公内閣やピットを牽制して戦争の終結を呼びかけます。
ピットは猛反対し、フランスとスペインが同盟したことから「スペインにも宣戦布告して植民地を奪い取れ」とさらなる戦争を煽ります。しかし国民の間には厭戦気分が高まっており、長引く戦争に英国の財政が持たなくなっていたこともあり、ニューカッスル公は開戦に反対します。孤立したピットは10月に辞職しますが、翌年1月に結局英国はスペインに宣戦布告します。
とはいえ財政難の英国政府は、スペインに対抗するため長年の友好国であるポルトガルと手を結びます。1755年11月のリスボン大地震と大津波で首都に壊滅的な被害を受け、かつての海上帝国の栄光は薄れたものの、宰相カルヴァーリョの独裁政権のもと国政改革を進めていたポルトガルは、ブラジルやアフリカの植民地からなお多くの富を搾取していました。ワインや奴隷の貿易で英国とも経済的に繋がりが深く、フランスとスペインを敵に回しても英国との同盟を結ぶことは一つの選択ではあります。スペインとフランスはポルトガルに同盟を呼びかけますが、カルヴァーリョはこれを拒み、4月末にスペイン軍がポルトガルへの侵攻を開始します。
同年1月、ロシアでは女帝エリザヴェータが崩御し、甥のピョートル3世が帝位につきます。先帝と仲が悪く、フリードリヒ大王を尊敬していた彼は、同年5月にプロイセンと講和し、占領地を全て返還したうえ援軍を派遣してオーストリアを脅しつけ、スウェーデンとの和平交渉も約束しました。窮地に追い込まれていたフリードリヒ大王は欣喜雀躍します。あまりに急激な方針転換にロシアは混乱し、7月にはクーデターが起きてピョートルは廃位されますが、以後ロシアが再びプロイセンと戦うことはありませんでした。
大戦終結
英国では1762年5月末にニューカッスル公内閣が倒れ、ビュート伯が首相に就任して組閣します。彼は国王の信任のもとトーリー党を優遇し、ホイッグ党を抑えて議会政治を混乱させ、国王の権力を強めようとしたため、議会派や庶民からは極度に嫌われました。また彼はポルトガルを支援してフランスやスペインと戦うため、プロイセンに対する援助を打ち切りましたが、プロイセンはロシアの支援を得てオーストリアと戦い、ザクセンやシレジアからオーストリア軍を撃退することに成功しました。
英国の新政権は戦争の早期終結を企図しつつ、スペインやフランスとは積極的に戦いました。本土に侵攻されたポルトガルは英国の支援のもとスペイン軍を撃退していますし、フロリダ、ハバナ、マニラなどスペインの海外拠点も英国に襲撃されて占領され、フランスはマルティニーク島などを占領されます。欧州での国境線変更は列強のパワーバランス的に難しいため、なるべく多くの海外植民地を占領しておいて、講和交渉を有利に進めようという魂胆です。かくて1763年2月、英国はフランス・スペインと講和しました。
これにより、フランスは北米東部、セネガル、インドにおける植民地の大部分を英国に、ミシシッピ川以西の植民地をスペインに割譲しました。また英国はスペインにマニラとハバナを返還する代わりにフロリダを獲得し、フランスにグアドループやマルティニーク、ゴレ島などを返還する代わりに、フランスに占領されていたカリブ海諸島の英国領を取り戻します。英国は多くの海外植民地を獲得し、大英帝国と産業革命の基礎が築かれました。
同月にはプロイセンとオーストリアの間で講和条約が締結され、1748年のオーストリア継承戦争終結時と同じく、シレジアはプロイセンが領有することが確認されました。七年戦争でオーストリアは何も取り戻せず、フランスはズタボロになり、プロイセンは何も得られなかったものの、フリードリヒ大王の武名と強運は後世までの語り草となったのです。
◆Rule◆
◆Britannia◆
【続く】
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