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カイ焼き

青本『相そう』から、一つの場面を眺めてみよう。とても分かりやすくて、読んでいて楽しい。

つぎの場面だ。整然としてにぎやかな台所。男が三人、それぞれの役目に懸命に努めている。

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文字はけっして多くないから、まず追ってみよう。原文には「物」という一字以外、すべて仮名書きなので、漢字を当てた。

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「かい(貝/櫂)や(焼)きといふものは、さてもかさ(嵩)たか(高)い物でござる。かた(肩)もすみ(炭)も、たま(堪)らぬ々々。
「しやふ々々(少々)のはぶし(歯節)にはた(立)とまいぞ。」

現代語に訳すまでもなかろうが、あえてするなら、一通りこうなるのだろうか。

「櫂焼きというのは、それにしてもかさ張るんだ。肩も堪えられない、炭も掛かって堪らない。」
「簡単には歯が立たないぞ。」

いずれも短い会話文だ。発話者を特定するにはすこし苦労するが、一通り前者を腰掛けている男、後者を立っている男の発言だとしてよかろう。あるいは前者を二つ分けて、「肩を…」以下の発言を立っている男のものにし、後者を画面に描かれていないだれかの発言として考えても差支えない。

それにしても飛んだ勘違いなのだ。「カイ」焼きと言われて、「貝」ではなくて「櫂」を持ってきた、というストーリーなのだ。たとえ船を商売にしていて、櫂が多数家の中に転がっていたとしても、それが食べ物ではないことぐらいは分かり切ったことだ。聞き間違って、一瞬誤解したとしても、すぐに気づき、自分の失念を笑うだろう。毎日交わしている言葉だから、頭を使えよと、いくらでもつっこみを入れたくなる。そして吹き出してしまう。

画面を眺めてみよう。

大きく蒸気が立っている竈の前には誰も座っていない。大きなまな板の前に端座する男は、あるいはこの場で一番熟練した調理のわざを心得た人だろうか。庖丁とまな箸を操るその姿は、台所風景としてこれまで繰り返して見てきたものだ。ただしここではまな板に載せられたのは生きの良い魚ではなくて、その分男の振る舞いはどこか空回りして滑稽だ。その彼が不思議にして不審そうな眼差しを投げた先には、苦闘する二人の大男がいた。

どうしても目立つのは、全身に力を込めた男だ。いかにも苦痛を耐えながらの姿勢を取っている。櫂の長さはそう誇張されてはいないようだが、そこまで重いものだろうか。それにしても、真剣に扇子で風を起こして火力を調整して男の動作は素早く動き、それに伴う音まで伝わりそうで、いまになってもすこしも変わらないところは、なぜかほっとさせられる。

この一冊のタイトルは、「相そう」あるいは「粗そう」。失敗した、恥をみせたといった意味で「粗相を搔いた」という表現は、いまも忘れられていないと言えよう。全作は五帖から構成され、それぞれの帖の表裏にこのような独立した十の場面が描かれる。現実生活ではけっしてあり得ない状況だが、頭の中で空想され、ますますエスカレードし、歯止めが掛からないまま、ついにここまでになった。いわば十の勘違い、十の言葉遊びなのだ。

この作品は、先週取り上げた豪華本『江戸の絵本』に収録されている。利用の底本は、いまはデジタル公開され、つぎのリンクからこのページ、そして作品全体を閲覧することができる。

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