日の出と共に目覚めたならば
さあ、今宵も物語をはじめましょう。
はじまりの父と母の時代から、いくつもの夜と昼とが過ぎたあと。
そして、少しだけなつかしい昔のこと。
風駆ける草原でめぐり合った、あるアウラ族のお話です。
いかついテール山脈の奥地、雄大な森や氷河の折り重なるそのどこかにあるという、誰も知らない隠れ谷。
そこには、いくつかの小屋が身を寄せ合うようにして並ぶ、小さな小さなイローがありました。
そこに暮らしているのが、アルラク族の人々です。何百年も前の争いで滅んでしまったと言われていた彼らですが、生き延びたごく少数の人々がこれ以上の争いを避けて谷に居を移し、やがて里ができたのです。
真っ白な雪と針葉樹の森、広い広い空を映す湖、そして何より大事なカリブーと共に、暑い夏は涼しいオルツ、凍てつく冬はあたたかい小屋で暮らす。生き延びるために始まったそれは、今や長年にわたる彼らの大切な伝統となっていました。
そうして彼らは長い間ひっそりと、穏やかに生きてきたのです。
そんなアルラク族に、ひとりの幼い少女がいました。
名は、カイリ。同じ年頃の子どもたちと比べると、人一倍遊び好きで、好奇心が旺盛な少女です。
おとなたちに隠れて自分の何倍も大きな鷹に飛び乗ってはイローを抜け出し、にこにこ顔で遠くの市の珍しいものを抱えて帰ってくる。そんな光景はいつものことで、おとなたちはいつしか「小さな雲」や「星の尾の子」などというあだ名で彼女を呼び、湖を取り囲む樹木のようにおおらかに──時にはお尻を叩きながらも──見守っていたのでした。
カイリは、そんな毎日の冒険のかたわら、幼いながら占術師としての修業を積んでいました。
彼女のお母さんは一族の中でも大切な役目をもった占術師で、小さいカイリにいろいろなことを教えてくれました。
風や大地の声の聞き方、水や空の表情の読み方、炎や星と息を合わせて歌う方法……。色鮮やかに染めた小石や布、不思議な模様の水盤、動物の形に切り抜いた木の葉がそれを助けてくれます。心をしずめ、しっかりと見て、聞いて、感じれば、雄大でおおらかな自然はいつだってたくさんのことを語り掛けてくれるのでした。
カイリはお父さんと一緒に空を見上げることも好きでした。昔、東の国で船乗りをしていていたというお父さんは、彼女と一緒に夜空を見上げながら、お母さんと同じようにいろいろなことを教えてくれました。
とりわけ、遠く離れていても目的地を見失わないための星の読み方を、カイリは一生懸命覚えました。そうすれば、どんなに遠くへ行ってしまったとしても、いつだってこの谷に帰ってこられるのですから。
*
ある日の、まだまだ夜と言っていい暗いうち。カイリはお父さんの大鷹にこっそりと鞍を乗せました。
眠たい目をした大鷹が「こんな時間にどうしたんだ」とでも言いたげに彼女を見下ろします。
「あのね、朝日が昇ってくるところが見たいの」
北の山奥にある隠れ谷では、朝はいつも少し遅れてやってきます。太陽はどうやって起き上がるのか、その瞬間の空はどんな色をしているのか。そのことを考えついてから、カイリはずっとそれを自分の目で見てみたくてたまりませんでした。
背に乗り、首を軽くたたくと、大きな翼が羽ばたいてふわりと宙に浮かびました。そのまま鷹はぐんぐん舞い上がり、カイリの示す東へ向かって風のように進みます。ふと振り返る頃には、谷はもう見えなくなっていました。
慣れ親しんだ山々や針葉樹の風景は、いつしか広大な草の海へと変わっていきます。空はまだまだ夜の色で、アウラ・ゼラの信仰厚い月神ナーマが、冴え冴えとした光を地上に投げかけています。日が昇るにはもう少し時間がかかりそうです。
ふと、カイリの目が地上に星のような一点をとらえました。
(なんだろう?)
降りていってみると、それは星ではなく、黄色い衣服を纏った少年でした。大きな鳥の影に驚いて立ち上がった少年は、小さな羊を一頭、まるで毛布のように抱きかかえています。その服と羊の毛に月の光があたって、光っているように見えたのでした。
「こんなところで何をしてるの?」
大鷲の背からカイリが声をかけると、少年の目がまん丸になりました。こんな場所で、それもこんな時間に、自分と同じ子どもに会うなんて思ってもみなかったことでしょう。
やがて少年は警戒をといたふうで低く呟きました。
「……逃げた羊を追いかけていたら、帰り道が見えなくなった」
地面に降り立ってみると、その少年の背丈は谷の男の子と比べてもずいぶん大きいことが分かりました。
羊を軽々と抱えているところを見るに、相当の力持ちなのでしょう。
「明るくなるまでここにいるの?」
尋ねると、少年は無言で頷きました。
「じゃあ、わたしもいていい?」
「構わないが、なぜ?」
「朝日が昇るところを見にきたの。それに、みんなでいれば温かいでしょう?」
いそいそと少年のいた岩根に座り込み、かたわらに大鷹を座らせるカイリを、少年はしばらく呆気にとられたように見ていましたが、やがておずおずとその隣に腰を下ろしました。
大鷹の羽毛と羊の毛はふかふかとあたたかく、凍てつく夜風を遮ってくれます。どちらからともなくふーっと吐かれた息は、とろとろとした眠気を伴い、満天の星空の中に溶けていきました。
「ねえ、何かお話しようよ。あったかくて眠くなっちゃう」
「何かって?」
「なんでもいいの。あなたの好きなお話はなに?」
少年は少しだけ考え、やがてぽつぽつと話し始めました。
それは彼の一族に伝わる神話でした。太陽神アジムと月神ナーマがかつて争っていたこと、やがて生みだされた鱗ある祖先のこと。手を取り合う人々の姿をみて、神々も愛し合うようになったこと。しかし太陽と月はひとところに居れず、天のそれぞれに去ってしまったこと。
いつしか少年の語りには熱がこもり始めていました。それだけこの物語を愛しているのでしょう。
「──そして、ナーマ神が生み出した子らを護るため、アジム神は己の化身を地上に遣わしたんだ。同じ場所で見守れるよう、黒い鱗を与えて。それが僕の一族になった」
「すごい、すごい! 面白かった」
カイリが手を叩くと、少年はちょっぴり得意そうな顔をしました。
「次はそっちの番だ」
「うーんと……じゃあ、母様に教わったおまじないを教えてあげる」
「おまじない?」
「そう。こうやってね。早くおうちに帰れますようにって考えながら唱えるの」
開いた片手を空へ差し上げたカイリに、少年もならいます。
いつしか月はずいぶん低くかかり、夜の色も少しずつ淡くなってきていました。
「風よ、風よ。誰より速いおまえの手綱を貸しておくれ」
目を閉じたカイリがそう唱えると、ひときわ冷たい一条の風が二人の指の間を流れていきました。少年が驚いたように手を懐へひっこめます。
「おしまい。いま、どの指のあいだが冷たかった?」
「ええと……多分、二の指と三の指の間」
カイリは遠くを眺めるように星空と少年の手のひらを見比べました。
「じゃあ、こっちが東だから……ここから後ろを振り返って、ちょっとだけ南の方へ歩いていけば近道だよ」
「本当か?」
少しばかり怪訝そうな少年に、カイリはにこっと笑いました。
「ほんと」
*
それからどれくらい経ったでしょう。
とりとめのないおしゃべりをしている間に、いつの間にかうたた寝してしまっていたようでした。
軽く揺さぶられて目を覚ましたカイリが少年の方を見ると、彼は目を輝かせて東の空を見ています。
同じ方を見たカイリは、思わず声を上げました。
薄い青から白に近い薄紅へと色を変えていく空。西の空はまだいくらか青が深く、白い月が夢のように残っています。満天の星々はすっかり空に溶け、遥かな東の地平から黄金色の太陽が昇りはじめていました。
何もかも洗い流すような澄み切った空気を、日の光が少しずつ彩っていきます。儚いほどの薄雲も柔らかな光に染められ、星の後を追うようにだんだんと空の色に溶けていきました。
それは想像していた通り──いいえ、それ以上の美しい夜明けでした。
「これが見たかったんだろ?」
「とっても、とっても綺麗! 柔らかくて、あたたかくて、胸がいっぱいになる」
「そうだな」
喜ぶカイリにつられたように、少年の目じりが少しだけ緩みました。
そうして二人は時のたつのも忘れ、ぼうっとその様を眺めていました。……羊と大鷹がそれぞれの袖を引っ張るまでは。
「じゃあ、そろそろ帰る」
「また会えるかな?」
「太陽神のお導きがあればな」
カイリはふたたび鷹の背に飛び乗り、少年はふたたび羊を担ぎました。二人の帰る先は、それぞれ違う方向。
鷹がその大きな翼を広げたとき、カイリははっとして少年へ呼びかけました。
「わたし、カイリ! あなたは?」
少年がこちらを振り返ったその瞬間、鷹が力強い羽音と共に朝焼けの空へと飛びあがります。
しかし、カイリはそのはざまに確かに見て、聞いたのです。かすかに笑ったように見えた、その少年の名前を。
「──マグナイ」
それからいくつもの季節が巡り、成長した少年が偉大なる「長兄」となり、彼の一族が草原の覇権を握ったころ。
とあるアウラ族の冒険者がバルダム覇道を踏破し、仲間と共に明けの玉座を訪れます。
そこから先は、また次の機会に語るといたしましょう。
なにせ、彼らが紡ぐ物語は、まだまだ続くのですから──