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イタリア
20歳の夏頃だろうか。今でもまぶたの裏にその時の事を明確に写すことができる。
季節は暑さは増すばかり。太陽の熱はコンクリートをフライパンのように熱くして、ビーサンの上の裸足を焦がしてレッグステーキでも作れそうだった。
徹夜でろくにご飯も食べていなかった僕はその日、暑さに負け大学のベンチで倒れるようにして居眠りをしていた。
突然頬にひんやりとしたものを感じ、僕は飛び起きた。
彼女は白いシンプルなワンピースを身に付け、麦わら帽子をかぶっていた。
彼女の切れ長の一重が僕を覗き込む。
青い空と麦わら帽子と彼女の火照った頬のコントラストが名画のように美しく僕は夢だと思った。
「大丈夫?」
ハッと気がつき僕は大丈夫、少しめまいがして横になっていただけだよ。と答えた。
「具合が悪いなら帰りなよ。送って行ってあげるわ」そういうと彼女は冷たい手で僕の頬を軽くはたいた。
彼女のはきはきとした態度はすべての相手を思い通りに動かせるのではないだろうか。
優柔不断を擬人化した僕と真逆でそれでも全くもって嫌味のない、彼女には何処かそういう類の魅力があった。
僕はためらいながらも気がつけば
「じゃあそうしようかな」と一度も話したことのない授業が二、三個同じなだけの女に対して口にしていた。いつも彼女を斜め後ろから盗み見ていた僕は彼女と正面で向かい合えるなんて思ってもみなかった。
「ねぇ、あの青色の花ヤグルマギクね。マリーアントアネットが好きな花なの」
「涼しい風ね。こういう風、薫風って呼ぶの。知ってる?」彼女の知識は美しく嫌味がなくずっと聞いていたいと思った。アパートの三階一番端まで彼女はついてきて、僕が部屋に入るのを見届けると、
「ちょっとまっててね!」
と元気よく飛び出して行った。まったく、サンダルと麦わら帽子を身につけるために生まれてきたような女だと僕は思った。
部屋に入るなり僕はすぐさま冷房を入れ、炭酸の抜けたひどくぬるいコーラで喉を潤した。
数分後、彼女の足音近づき予想通りにチャイムが騒がしく鳴った。
「なにか栄養のあるもの作ろうと思って。入れて?」
大きなビニール袋を2つ下げて彼女は部屋に入るなり、
「うわぁ、あなたの部屋って本当に何もないのね。でも意外とキッチンは充実してるね。自炊するの?」などといいながらワインを冷蔵庫に押し込みキッチンで野菜を切り始めた。
「随分と手際がいいんだね」
「まあね、私お母さんが夜遊びにしか興味のない人だったからノンナは私に教えたがったのよ。」
そう言いながら彼女は玉ねぎ、ズッキーニやナス、パプリカを切っていった。
「ノンナって?」
「おばあちゃん。じいじと結婚して長野に住んでるんだけどイタリア人なの。母は若くして私を生んだからほとんど彼女に育てられたの」
なるほど。彼女の他の女子大生にない不思議な魅力の理由はこれか。
そう言いながら彼女は切った野菜をオリーブオイルで炒めて塩胡椒とトマト缶で煮付け、冷凍庫で冷やす。
その間にパスタを茹で、フライパンでオリーブオイルに大蒜生姜唐辛子で香り付けて残った野菜を加えて塩胡椒で味を整えペペロンチーノを作った。僕の部屋は数十分のうちにイタリアの香りに包まれた。
トマトとモッツァレラチーズを切りさらに交互に皿に乗せる。オリーブオイルとハーブソルトを振る。
ペペロンチーノとカポナータを皿に盛りテーブルに持ってくると彼女はゲームをしていた僕の頬を人差し指でついた。
「できたよ」
僕らはキンキンに冷えたワインで乾杯をした。
彼女の料理はどれもレストランに負けないくらいおいしかった。テレビで近日公開の映画の前話がやっていた。僕はまったくもって興味がなかったが彼女が進めるので見るとそれは非常に面白かった。
僕らはワインをひと瓶空けて、食後にハーゲンダッツを食べた。
彼女が買ってきたのはストロベリーとマカダミアナッツで、僕はマカダミアナッツの方を食べたかったが彼女は僕に聞きもせずストロベリーを渡してきた。彼女らしくて好きだと思った。
それから酔った彼女は僕にキスをしてきた。
その晩僕らはキスをもう一度交わし、眠りについただけだったが目の前が映画の中になるような、半分夢のような、そういう夜だった。
それからというもの、彼女は週に一度毎週水曜日に来て僕らは映画を見てワインを飲み彼女が作った美味しいご飯を食べた。僕は火曜日の夜律儀にハーゲンダッツを二つ買い、水曜日の朝は掃除機をかけた。
夏が終わりに差し掛かり冷房も不要になった。九月初めの水曜日に彼女は初めて僕の部屋に来なくなった。
次の日「ピンポン」と元気のないチャイムでドアを開けると木曜日の彼女は珍しく真っ黒なワンピースで寝不足の目元が赤かった。
「昨日、ごめん」とだけ言って
彼女はイカスミパスタを作り、僕らはいつものようにパーティーをした。
ただし彼女は一切喋らずぼうっとした様子でワインを1人でひと瓶開けた。
彼女の首筋に大きな夕暮れ色の跡を見つけた僕は指でなぞりこれは何かと聞いた。
「私はもちろんあなたのことを友達だと思ってる。だからプラトニックな関係だって説明したの。でも彼はそれを信じなくって。」
僕は彼女に恋人がいることも僕のことを友達だと思っていることもその時に知ったがなんとなく聞けなかった僕は
「彼氏が殴ったのか?」
とだけ聞いた。
彼女はコクリと一度だけうなづいた。
「そんな奴別れて僕と付き合おう」と手を握って言うと彼女は虚ろな目をしてもう一度うなづいた。その後はまたぼうっと窓の外の色が変わるのを眺めていただけだった。
その次の水曜日、彼女は来なかった。
もちろん木曜日に来ることもなかった。
夏休みは終わり学校が始まった。
僕はタンスの中身を薄手の長袖に変え、
濃紺のベッドカバーを新調した。
水曜日の夜儀式のように僕は1人でハーゲンダッツを食べ、その時より一層彼女を恋しく思った。
僕は彼女を見逃さないようにいつも注意深く歩いたが、大学でも彼女の姿を見ることはなかった。
夢のような人だなと改めて思った。
地面が秋で染まった頃、喫煙所でタバコを吸っていると彼女とよく一緒にいた女の子が話しかけてきた。
彼女とは正反対に耳元を刈り上げツーブロックにして黒い髪を短く切りそろえたいかつい髪型が不自然に似合った、童顔の美人であった。
「あの子のおじいちゃん九月初めに死んだらしいよ」
「それでノンナもボケて一人暮らしが心配ってんであの子、大学やめて長野に帰っちゃったのよ。」
「あの子根っからの浮気性だから彼氏にも愛想つかされちゃったみたいでさ、住むところもないしちょうどよかったんだって。」
「まあ知ってると思うけど。」含んだ笑いをした女に僕は
「全部初めて知ったよ」とだけ言った。
「恋人なのに何も聞かされてないなんて可哀想ね」と彼女は眉の間にしわを作った。
「私もあの子と付き合ってたのよ。」
「彼女の腰のタトゥは私とお揃いなの」
僕は改めて彼女の事を全然知らない事を知り、心に空洞が生まれた気がした。彼女の腰に掘られたという花の絵を一度でいいから見てみたかった。その日、僕は裸で泣く彼女を何度も抱きしめる夢をみた。
木々は服を脱ぎ捨て、はだかの体を白く着飾り始めた。澄んだ空気のなか深呼吸をするとツンと涙がにじむ。
ジャケットの下にいくら服を着たところで風は僕らを凍らせようと勤しむ。
土曜の早朝珍しくポストに何か落とされて僕は目を覚ました。
カーテンを開け朝日で読む手紙には走った小さめの文字で短くこう書かれていた。
その節はごめんなさい。
大学を辞めた事はもう知ってると思うけど祖母の希望でイタリアへ引っ越すことになりました。不安はありますがうまくいく性分なので私は大丈夫。だからあなたもあなたの人生を頑張って。
親愛を込めて。Arrivederla!
P.s. アイスクリームを目にする度にあなたを恋しく思います。少しだけね。
僕は手紙の裏に書かれたレシピに従って料理をし、彼女の残したマカロニを茹でて入れた。それはあの日のカポナータの味だった。
僕は1人でワインを空け、アイスクリームを食べて、手紙をゴミ箱に投げやった。
外は昼を越え、夜を越え、いつのまにか朝になっていた。