偽者の自分から本当の自分へ
1.暴走する思考感情
考え事や感情がほとんど無自覚に頭に浮かんでは消えしている。
それがあまりにも自然でそれを疑問に思うことすらない人がほとんどかもしれない。
将来のことを考えると不安で眠れないとか、過去のあの事を思い出してそのことが頭から離れないとか、思考の厄介さに苦しんだことはだれでもあるだろう。
もちろん過去の楽しかったことを何度も思い返しては悦に入ったり、将来のわくわくするようなことを考え楽しんだりということもある。
しかしこの思考は「今、考えている」という事実を除けば、すでに過ぎ去っていて存在しない過去のことか、
あるいは将来の期待や希望、過去の記憶から予測して起こるかどうかもわからない不安や心配事などを考えている。
つまり今の現実の自分の立ち位置から離れ、頭の中で勝手に想像している。
いや、別に現実問題として支障がなければいいじゃないか。
という人もいるが、そもそも苦しみの原因はすべて思考やそれに付随する感情からきているのではないだろうか?
例えば、月曜日がきたというだけで「ああまた一週間がはじまるのかー」と暗い気持ちになったり、
金曜日の夕方がくるともうウキウキ、やっと休みだ!と開放感がやってくる。
ガンが2人に一人の時代などといわれると途端に暗い気持ちになったり、
嫌いな人と会うと思っただけで嫌な気分になる。
とあげればきりがないほど、われわれはこの頭の中の思考や感情にいかに振り回されているかがよくわかる。
もともと思考はツールとして必要な時に使うものなのに、いつしかコントロールがきかなくなり、思考に人間が使われてしまっているのが現状である。
古来、賢人たちは図らずもこのことに気づき、この頭の中を去来しては我が物顔で人生を支配するこの思考から自由になれぬかと、悪戦苦闘してきたのである。
2.二人の自分
しかし思考にも欠点があった。
自分が思考している、と気づかれた瞬間、その思考は消えるのである。
瞑想では、瞑想中に頭に去来する思考を無理やり消そうとするとかえって思考は抵抗して止まないが、
その思考をじっとだまって観察していると思考は消え、観察していることを忘れると、また思考が現れ、を繰り返す。
やがて、思考と同一化している自分とそれを観察している自分が乖離してきて、いつしか思考している自分ではなく、それに気づいている自分が主導権を握るようになる。
思考に気づいているもう一人の自分こそが本当の自分である。
自殺寸前のところから、突然の霊体験で思考から自由になり、悟りを体現したエックハルト・トールは
29歳のある晩、夜中に目を覚ますと、それまでも鬱状態に苦しんできたが、いつにもまして強烈な絶望感に襲われ、見えるもの聞こえるもの何もかもが不自然で無意味で冷たく感じられ、この世の全てを呪ってやりたい気持ちになったという。
しかも何より自分自身が無価値な存在に感じ、
「こんな悲惨な人生を歩むことになんの意味があるのか?どうしてこれほど苦しみながら生きていかねばならないのか?」という痛恨の叫びから、
「いっそ消えてしまいたい!」
「こんな自分と生きていくのはまっぴらごめんだ!」
と思いつめた瞬間、
ふと奇妙なことに気づいたといいます。
苦しんでいる自分と
こんな自分と生きていたくない自分
二人の自分に気づいたのです。
「思考している自分は本当の自分ではない。その思考に気づいている自分こそが本当の自分である。」と言っているのです。
瞑想するとわかりますが、考えまいとしても次から次へと思考はやってきては連鎖して止まりません。
そしてかたや、その思考に気づいている自分がいることも確かです。
本を読んでいる時でも、テレビを見ている時でも、お茶を飲んでいる時でもその気になれば、自分が今何を考え、何をしているのか認識できます。
この今自分が何を考え、何をしているか、を認識する能力は頭の良し悪しとは無関係だそうです。
認知心理学では、この認識能力が高い人ほど犯罪などを犯すことが少ないともいいます。
思考の雑音が少なくなると、頭の中は静かになり、必要な情報はインスピレーションでおりてきます。
優れた芸術家や科学者などに共通することは、偉大な業績につながるアイデアや着想はインスピレーションで得ている点です。
リラックスしている時などに着想がおりてきたりしています。
いいアイデアは思考からくるのではなくおりてくるのです。
思考は過去の記憶からしか判断できないからです。
頭が静まると、人の話も読書もよく理解でき思考の先入観に邪魔されず、物事はスムーズに運びます。
またシンクロニシティという偶然の一致現象が頻繁になり、思考の葛藤とは無縁となり、今生での使命も明確になり、人生がはるかに楽になります。
人類の新しい種が生まれ出ようとしている。(エックハルト・トール)