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淡路島には最古のお好み焼(=肉天)が今も残っていた_4

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うがい

当初の予定にはなかったが、由良地区では肉天のことを洋食と呼ぶと聞き、調べてみると老舗っぽいお好み焼店があった。
しかも成ヶ島という細長い島が漁港のすぐ近くにあり、天然の防波堤になっている。
6kmほど海の向こうに見えている陸は和歌山市だ。
当然、ここにも漁港があるので、漁港のお好み焼店だ。
訪れてみると昭和53年(1978年)創業、女性3名で切り盛り。
お喋り好きで楽しい方ばかりで、訊けば何でも教えてくださった。

値段は書いてないがリーズナブルだった

品書きにはお好み焼と洋食焼が書き分けてある。
お好み焼は混ぜ焼きで、洋食焼は重ね焼きなので、洋食焼を肉天と読み替えれば淡路島共通の呼び方だ。
なお、由良地区でも昔は肉天と呼んでおり、多い時は20軒ほどの店があって、漁師が仕事終わりに肉天を食べに来ていたとのこと。
この店がユニークなのは、洋食焼にデフォルトで茹でたジャガイモを入れること。

まさか淡路島の東端でジャガイモ入りの肉天に出会うとは…

なぜ洋食焼にだけジャガイモを入れるのか訊いてみると、昔、店内で関東炊きを出していたころの名残で、その頃は関東炊き(おでん)のジャガイモを使っていたとのこと。
ジャガイモが入る経緯も、重ね焼きであることも高砂にくてんと全く同じ。
さらにこの店ではスジ肉とコンニャクを別に炊いていた。
「これは高砂にくてんですよ!」と言っても意味不明なので「兵庫県の高砂市で同じジャガイモ入りの肉天が食べられているんですよ」と言ってみたが、お姉様方はへーという相槌を打つだけで興味なさそうだった。

味噌炊きの種はスジ肉、茹で玉子、コンニャクの3種

関東炊きは提供を止めたが、それとは別に味噌炊きは現在も提供しており、昔はこれもお好み焼店の定番だったとのこと。
後に調べてみると由良地区の「ほたる」というお好み焼店でも味噌炊きを提供していることがわかった。
洋食焼に限らず、お好み焼、そばめし、ねぎ焼など全ての料理にスジ肉とコンニャクを入れる。
洋食焼(肉天)の焼き方は福良地区と少し異なり、生地、コンニャク、キャベツ、スジ肉、ジャガイモ、青ネギ、天カス、紅生姜の順に積み上げて繋ぎの生地を振りかけてひっくり返す。

完成した「うがい」の洋食焼(肉天)

紋六

最後は今回の調査で最優先だった店だ。
事前にいくら調べても正確な創業年がわからなかったが、もしかしたら現存する中では、我が国で最も古くから続くお好み焼店かもしれないからだ。
訪れた時に営業してくれていて、心からホッとした。

橋の袂にあり、茶間川に基礎が少しはみ出るように建っている

現在はお孫さんが二代目として店を継がれており、彼女から色々とお話をお伺いすることができた。
正確な創業年は不明だが、昭和13年(1938年)の茶間川の氾濫で現在地にあった店舗が流されたが、その時は既にお好み焼店を営んでいたとのこと。
これが店舗に関する最も古い情報だ。

また初代が明治30年(1897年)生まれであることを、二代目が覚えておられたので、36歳の時に開店したとしても現存する最古のお好み焼店「みずはら」の昭和8年(1933年)に匹敵する。
当時の世相は、第一次世界大戦後のバブルが崩壊していて、大正初期から我が国は金融が安定せず、関東大震災もあったりしてずっと慢性的な不況が続いた。
その後、昭和5-6年(1929-1930年)に昭和恐慌が起きていること、当時の女性の結婚可能年齢が16歳(それより早く結婚出産していたので法律で16歳からと定めた)であることを考えると、出産と子育てが一段落する30歳までには家計を助けるために営業していたはずと考えられる。
あくまで仮説だが、現存する最古のお好み焼店である可能性が高いのだ。

なお、最も近年である想定としては昭和13年、41歳で開店してすぐ水害に遭ったケースで、その場合は「染太郎」の創業が昭和12年(1937年)なので、3番目に古い店ということになる。

全ての料理に玉子は入っておらず、必要ならオプションで加える

現在の品書きに肉天の表記はないが、昔は肉天とか洋食焼と呼んでいたとのこと。
店主に「どの料理が昔の肉天なの?」と確認すると、お好み焼のスジだと言われる。
おや?
この品書きを読み解くと、お好み焼は混ぜ焼きで、ネギ焼が重ね焼きになるはず。
そうであればネギ焼のスジが肉天ではないか?と思いつつ、訊いておいて頼まないのは失礼なので、お好み焼のスジをお願いした。

シャバシャバ生地とキャベツを混ぜているところ

小鍋のような容器に、小麦粉と水をシャバシャバに溶いただけのような生地とキャベツを入れて混ぜ、鉄板に広げる。

シャバシャバ生地はキャベツの隙間から流れ落ちるので、写真では混ぜ焼きに見えない

その上に天カス、コンニャク、スジ肉をのせて、ひっくり返す。
混ぜ焼きと重ね焼きの折衷タイプだ。

具は天カス、スジ肉、コンニャクのみで青ネギも紅生姜も入らない

この店では淡路島にしては珍しく客が自分でソースを塗る。
これは神戸市内に残る流儀で、いつどこから始まったのか、まだわかっていない。
ソースを塗り終わると、青ネギをかけてもいいか?と確認した上で散らしてくれた。

青ネギは中に入れて焼くのではなく、客の了解を得て上に散らす

淡路島の肉天ではキャベツと一緒に青ネギも中に入れるのが普通なので、仕上げにのせるのは珍しいねと言うと「初代を手伝っていた旦那がネギ嫌いだったから、客の都合も訊かずに勝手に入れるな!」って怒ってたらしいのよとこと。
なるほど、実に明治の男っぽい。

岩屋地区は元々漁師町で、昔は漁師の客が多く、肉天は基本、酒のアテだった。
この地区にも昔はお好み焼店が18店くらいあって、初代はスジ肉すら手に入らない時代、おでんのジャガイモとコンニャクを入れていたとのこと。
コンニャクを濃いめの味付けで炊き、細かく刻むとちょっと肉っぽい食感になるからだろう。
動物性タンパク質に飢えていた昔の人の知恵だ。

最近は玉子入りで頼む客が多いけれど、肉天は玉子なしが本来。
スジ肉は味付けせず、炊いてそのままから煎りしたもので、コンニャクとは別に炊いていると見せてくださった。

炊いたコンニャクが入った容器
炊いた後、水分がなくなるまで乾煎りしたスジ肉と天カスを和えてある

このスジ肉の処理は野一色幹夫の「夢のあとさき」に記載された調理法と同じ。

昔の牛テンの肉は“あれは、単なる”牛のヒキ肉じゃないンだ。
いちばん安い“スジ肉”を細かに刻みそれをカラカラに“カラ煎り”したもの…
だから味もコッテリして、つまりスジ肉の味なンだよ“

野一色幹夫「夢のあとさき」

 やはり最古級の店には文化財級の調理技術が伝わっているのだ。

やはりここは品書きから予想される肉天(=ネギ焼のスジ)を食べてみなければならないだろうと考えお願いした。
すると「お好み焼きの物語」の挿絵の牛天と同じ料理が提供されたのだ!

「お好み焼きの物語」187ページに掲載された原初の牛天の焼き方(混ぜ焼き式もあった)
薄く広げた生地の上に青ネギを置き
その上にスジ肉と天カス、味付けして細かく刻んだコンニャクをのせる
繋ぎの生地を全体に振りかけ
ひっくり返す
具が焼けたら元に戻して醤油で味付け
魚粉を散らして完成

歴史書の挿絵から抜け出たような牛天が、我が国で最も古いお好み焼店(推定)で提供されたのだ!
周囲の人たちから「何をそんなに興奮してるんだ?」と奇妙な目で見られたが、僕からすると瀬戸内海でシーラカンス釣り上げたら誰だって興奮するだろ!と言いたい気分だった。

厳密に見るとコンニャクと天カスが挿絵とは異なる。
どちらも後年、お好み焼に使われるようになった具材だが、大きな差異にはならないし、入ったほうがおいしい。
挿絵ではソースと書かれているが、店で使われたのは醤油なので、これは大きな違いでは?と思われるかもだが、むしろこちらのほうが実態に近い。
昔のソースと醤油の関係については「お好み焼きの戦前史 第二版 Kindle版」に詳しく書かれているので、ぜひ読んでもらいたい。
こちらは「お好み焼きの物語」の一部をリライトし、エピソードが追加されている最新版なのだ。

淡路島は周囲の海がほぼ全て良質な漁場で、古代の時代から御食国(みけつくに)として朝廷へ魚介を含む様々な食材を献上してきた。
その豊かな島は架橋される前は船で神戸港と鳴門港に結ばれていて、人や物や文化が行き来していた。
そして神戸市から肉天が伝わると、原初の形式を残したまま漁師たちに愛され続け、まるで生きている化石のように存在し続けている。

庶民の日常食であるお好み焼の世界は思った以上に深い。
注目されることは全くないけれど、その土地の産業や生活と結びついたローカルお好み焼はまだまだ色んな地域に残っているはず。
ローカルお好み焼を調べていくと、必然的にその街の歴史や記憶を知ることにもなり、その謎解きプロセスが歴史好きにはたまらなく楽しい。
淡路島の肉天はお好み焼界の文化遺産だった。
これからも地元の人達に愛され続けてほしいと切に願う。

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シャオヘイ
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