ドッペルゲンガーの正体
今日は実家に帰った。
実は結構定期的には帰っている。
懇意にしてる美容師の人が地元にいて、定期的に髪を切ってもらっているからだ。
実家に帰るとカメラをやってるからか、旅行の写真を見せて!と良く言われる。
基本風景写真ばかり撮っているからそれは別にいいのだが、昔から自分や友達が楽しそうに写っている写真を家族や別の友人に見せるのは凄い抵抗感がある。
この感覚は「授業参観の嫌さ」「三者面談の嫌さ」に通ずるそれだ。
未だそのマインドを捨てられずにいる。
あらゆる人間は多面的で、それぞれ所属するコミュニティーによってそれぞれのキャラクターやポジショニングを使い分けている。
そして自分の場合はそれが交差したとき自分という人間のキャラクターがブレるのが怖くてどうしても落ち着かない。
学生時代に有りがちな仲良しグループの中で恋愛関係に発展することが絶対になかったのはそういう理由が強いように思う。
自分の中では溢れだす成長ホルモンよりも確固たる自意識が圧勝していた。
「家族の自分」「昔の自分」「中学時代の自分」「高校時代の自分」「大学時代の自分」「会社の自分」「恋人といる自分」「インターネットの自分」「1人の時の自分」と人は時と場合によって色んな「自分」をフォルダから引き出してはそれを出力してる。
しかしそのどれもが本当の自分ではないような気がするし、そう考えていくと「自分」とは物体が光を反射するように、他者の網膜に投影された虚像なのではという底知れない恐怖がやってくる。
きっとこの「使い分けてきた自分たちが不意にバッティングしてしまうのが怖い」という感情は「ドッペルゲンガーを見たら死ぬ」という話として世界に伝播していったんじゃなかろうか。
多分最初にそれを言い出した人も「親と買い物に行ってるのを同級生の女子に見つかる嫌さ」のレベル100みたいなのが「ドッペルゲンガーを見たら死ぬ」って話になったんだろうと思うと、自意識というものは文字通り死ぬほど厄介だ。
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