[九]なぜ生きている
「なんで生きてるんですか?」私はこのように問われたことがある。
今も考え続けていることだが、なんでと言われても私がこの世にこの肉体を持ってどうしても生まれてきたいと意思決定した記憶がないから答えようが無い。少し捉え方を変えてみて、なぜ今も生きる選択を続けているのかとえてみることにした。
死を選択することなく、今も息をし続けているのは強い意志によるものか、それとも死に対する脅迫観念のようなものか。いろいろと考えたが私はこのように思う。「何れ肉体的に死を迎えるのだから、わざわざ今すぐ死を選択する必要性がない」と。言い換えれば必要性を感じれば死を選択する。
ではその必要性とは何に対して必要と判断するのか。
これは私が私を理解することに尽きると考えている。今現在、私は一体何者なのかについてさっぱり解っていない。生を全うする間にその答えにたどり着けるのか、死が必要なのか、それすらわからない。この答えはきっと「なぜ生きているのか」に繋がる問題であると思うし、この問題を放置して娯楽に興ずるのみの生を過ごすようなことは行いたくない。
もし肉体的快楽を得るためだけに生きているということなのであれば、それは死=終わりを意味する。それが答えだったとしたら、それはそれでいいのだが、死者とは交信できないので確かめようもない。
また、それが答えだった場合、「肉体的快楽を得るために私達は生まれてきました」という割には肉体的快楽を制御するルールが世の中に多すぎるし、目的に達さないように生きているように感じるのが正直なところだ。生まれてきた目的を達成したいが、そればかりを突き詰めると世の中めちゃくちゃになるので、いい感じでコントロールして、程よく生きましょう。というのが人間の到達点だというのか。それは虚しすぎるし、現状に甘んじた言い訳にしか聞こえない。
死とは肉体からの解放であると、多くの著書で記されてきたと思うが、私もそのように考えている。しかし、肉体から解放されるべく、今すぐにでも死を選択するというのは早計に思う。生の間になにができるのか、この肉体をもった意味は何なのかについて考えることがスタートではないのか。
少なくとも五感と呼ばれるものが私には存在し、今のところ機能している。感じとれるものを零さないように、捉えることができるように生きなければならない。
私達は気づいたら此処にいて、後付けのように”生きる選択をしている理由”を見つけているが、”なぜ生きているのか”については不明瞭なまま、肉体を手放すことを繰り返しかねない。最悪なのは”なぜ生きているのか”その答えを出さぬまま、この問題自体を忘れ去ってしまい、考えを巡らせることすらしなくなることだと私は思う。そうなれば人間は永遠に地球上にポツンと置かれた人形として息をするしかなくなるだろうから。
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