統計的に生まれた孤独の中で
「統計は所詮は統計」…か?
突然だが、このグラフを見てほしい。
これは私のWAIS-Ⅳの結果を折れ線グラフにしたものである。
これを見た医者に「統計的に発達障害と言える」のも一因となって、私は発達障害と診断された。
統計は所詮統計なんていう言葉もあるので、このような結果になったからと言って一概に発達障害とは言えるわけではないことを念押ししておく。
一方で、100人前後の発達障害で困る人と話してきた肌感覚で言えば、かなり高確率で同じようなグラフの形をしている人は同じような困り方をしている。
統計は所詮統計かもしれないが、同胞を見つけるのに役に立つ手段でもあるのかもしれない。
「あなたは社会の中にいる限り孤独でしょうね」
これは、某障害者職業センターからの私の総評だ。
曰く、処理凹言語凸の発達障害者は、凸の部分である言語が目立って能力が高いと思われるが、一緒に仕事をしていくと処理凹の部分が気になって「期待外れ」と思われるらしい。
この言葉は私の心のささくれになって、今でもふとした瞬間にじくじくと痛みを感じさせてくる。自信のない私の歩みを止めるには十分すぎるくらいに厄介な痛みだ。
孤独を感じる度に私はこの言葉を思い出す。
職場での孤立、支援機関の職員との意見の相違、家族との食事……
誰かと意見を交換し、「理解したい」とのたまう人の「社会ってそういうものだから」という言葉をかけられる度孤独を感じる。ささくれを思い出す。
私は、統計的に孤独だった。
「障害は社会がつくる」
障害福祉に携わる人間なら、どこかで聞いたことがあるかもしれない。
階段がなければ車いすユーザーが不便を感じることはないし、棚の高いところにモノを置かなければ手が届かないこともない。
「立って歩けない」「目が見えない」というような心身の機能の制約が障害ととらえられがちだが、階段しかない施設などの社会の仕組みが障害を生み出しているという考え方だ。
社会は多数派に便利なようにできている。
大半の信号は目が見える人のためにできているし、字は右利きの書きやすいようにつくられている。
少数派の困難は、多数派の人間からしたら気がつきにくいものだ。
だからといって信号をなくすわけにいかないし、字をいちから作り直すわけにいかない。
障害は社会がつくっているかもしれないが、社会を壊してスクラップ&ビルドするわけにもいかない。
人類は道具を使うことで発展してきた。
ゆえに、治具と呼ばれるものなど、あらたな仕組みを追加することで少数派にも生きやすい社会になろうとしている最中だ。
今日、新たなお守りをもらった。
ささくれを作りながらも私が支援を求めるのは、「どうしようもなくつらいとき、あと1回、もう1人でいいから頼ってみて」という誰かの言葉をお守りにして生きているからだ。
深い海の底に沈んでいるような、光を感じられず息が思うようにできないと思ったときこそ人とつながるようにしている。
本当は一人で好きなだけ傷心に浸って自分のことをかわいそうな人だと思って見捨てたいけれど、あと1回だけ、もう1人だけ。
そうして今回つながった支援センターさんから、新しいお守りをもらった。
「孤独なのはあなたのせいじゃなくて、困りごとの最前線にいるからだと思います」
少数派が困りごとを発信しなければ社会は少数派の生きやすいように変わることもできないから、困りごとの最前線にいる人が発信をしてほしい。
社会を変えようとする人がそう言う傍らで、少数派は排斥しようという従来の考えから抜け出せないでいるのもまた事実だとその人は言った。
人が変わるのには思ったより長い年月が必要だから、発信する少数派はいつだって理解されない孤独感を感じているのかもしれない。
このお守りを抱きしめて、また社会に向かってみようと思う。
それが正しいかどうかはわからないけれど、自分の信じたいものを信じたっていいだろう。