瓦斯人間国宝第一号
彼の瓦斯人間、いと面白く笛を吹く事から、重要無形文化財に推挙する者が在った。
「いやあ、あの男には正しく形が在りませんからなあ」
「洒落て居る場合では無い。真面目な話をして居るのだ」
「彼の者は笛を奏しては居らぬ、管の中を吹き貫けているに過ぎぬのでは無いか」
「否、唯移動する、そればかりの事を見事芸術にまで高めた者は、他にも居りますぞ」
「ほう、例えば誰じゃ」
「松尾芭蕉」
「ううむ」
議論は紛糾し、結論を見ぬ儘徒に時間ばかりが過ぎた。
「私には、どうにも余所事にしか聞こえないのです。まあ、雲を掴む様な話としか」
水野氏は一つ溜息を吐くと、銜えた煙草に燐寸を近付けた。
咄嗟に身構える私を見透かした様に、水野氏は鷹揚に笑った。
「どうか御心配なさらずに。瓦斯人間が皆、揃って引火性が高いと云うわけではありません。勿論、中には血の気の多い者も居らぬでは無いですが」
水野氏が甘そうに煙草を燻らすと、紫の煙が気管を浮かび上がらせ、肺の辺りで薄黒く拡がった。
「私はね、名誉等と云うものにはとんと執着が有りません。その代わり、世間様の私達を見る目、曰く軽々しいとか、曰く捉え処が無いとか、そう云う物に少しでも変化を齎す事が出来たのであれば、瓦斯人間国宝にも何某かの意味は有るのでしょう」
インタビューは、既に与えられた時限を大幅に過ぎていた。水野氏は大きく伸びをすると、殆ど無造作にまた燐寸を擦る。私は、怖ず怖ずと訊ねた―煙草は、貴方の芸術を阻害するのでは、と。
「いやはや、御気遣いには感謝します。でもね、所詮人間の命等儚い物ですよ。譬え、瓦斯であろうと無かろうと」
その年の夏の終わり、趣味の釣りに出掛けた水野氏は、大風に浚われて行方知らずと為った。近くの漁師に発見された時には既に虫の息、再び笛を吹く等は到底叶わぬ有様で在ったと言う。
それ限り、重要無形文化財の話も虚しく幻と消えて仕舞った。