可能性の問題だ。 「円城塔が書いた様な焼きそばの作り方」も。 「円城塔は焼きそばの作り方を書かなかった様な」も。 可能性がある以上、それは不可避的に存在してしまう。 現に今、こうして存在してしまっている。
(00:03:00:00) 「焼きうどんです」 話が初っ端から破綻している。 「それとも焼きナポリタンだったかな」 ついでに自己同一性も崩壊している。しかし、この香ばしいソースの匂いはどう嗅いだって焼きそばなのだし、即席汁無し麺一般を焼きそばと呼んで差し障りはなさそうである。 「作り方はまだありません」 聞けよ。 とは言え、現に今ここにこうやって存在する以上、作り方はともかく作られ方ってもんがあったはずだ。 「さあ、何ともその辺りの記憶が曖昧で」 何とも心許無い。
“さて若旦那様に嫁いで参りましたのが然る没落商家の一人娘、其節羽振りの良かった当家に縁を繋いでおこうと質草同然に差し出されたのが、また瓜実顔の色白美人、若旦那様は一目でのぼせ上りまして、まあ大旦那様も予て御贔屓にしていただいた由、無碍にも致しかねると縁談を御請けなすった。ところがいざ家に入りますれば、やれ京から絹の伊勢から真珠のと我儘三昧の贅沢三昧、その上器量ばかりか人誑しにも長けておる、何やかやと旦那様方を言い伏せて、飽く無う散財には目を瞑らせておりました。しかし好え時は何
「姫様は呪われた花嫁になられるでしょう。」 王女が十になる年の元日に、年老いた女官がそう予言した。 「いったい、どんな恐ろしい魔物がわたしを呪うというのでしょう?」 王女は心も凍りつかせるほどに冷たいその宣告に身を震わせながら、それでも我が身に仇をなすものの正体を尋ねずにはいられなかった。だが、年老いた女官の答えは、王女が想像していたよりも一層恐ろしいものだった。 「何もかもでございますよ。姫様が見、聞き、触れ、或いは親しみ、或いは情を交わしたもの、その悉くが呪うのです。」
“妾、こっそりお海苔に切れ込みを入れておいたんです。旦那様は万事にせかせかと忙しない、食事も良く噛まずさっさと鵜飲みにされるきらいが御座いますから、喉をお詰めになられでもしたら不可いと思いまして。それで、験担ぎには煩い旦那様は、正しく丙申に向うて黙黙と太巻きを召し上がられましたあと、自ら冷たい井戸の水でお盆を濯がれまして、もう夜も遅い、お前さんも下がれ、お寝みと、そう妾に仰るなり、御自分はまたひとり帳場にお籠りになられたので御座います。 結局、旦那様は其年の桜も見ないうちに
聖夜、世界中の萬集家がカレンダーを持ち寄って交換会を開く。 奇妙なルールが三つある。 一つ、25日の蓋が未開封である事。 二つ、24日迄に入っていた何かの痕跡を一切残していない事。 三つ、25日の蓋は各自持ち帰った上で開封し、見たものについて口外無用とする事。 “堅く糊付けしてある蓋を力任せに引っ張ったら25枚全部がいっときに剝がれてしまう。「趣向があったのだ!」と白い貂みたいのが憤慨している。あとの24匹はさっさと店じまいを始めている。何やら精巧な仕掛けが施されているらし
霜月晦日、柳花二翁常世の国の門前に立ちて新入りの到着を今か今かと待ち侘びてゐた。 「ばけもの監査取締殿、大層待たせよるものですな」 「さて、相当のおばけずきと此岸にも名ばかり聞こえるのが、何時迄も中有にぐずぐず留まつてゐるのだから、心持ちがざわざわと落着かなくて困る」 柳翁、欠伸を噛み殺し渋い面をしてゐるところへ、霞の向うから隻腕の翁がひとり、カランコロンと呑気にやつてくる。 「やあ、あれで御座いますかな」 「おおい、此方だ。君が余りに長く待たせるものだから、僕の首も長く
凡そ半世紀以上に亘り、古今東西に数多ある美術工芸の名品、奇品、珍品を木槌一本で捌き分けた老競売人の引退の日、競売場に程近い名門ホテルの大広間で盛大なパーティが催された。 老競売人が、居並ぶ名士名人を前に、朴訥な、しかしそれ故に胸を打つスピーチを終えると、ある若い新聞記者が怖ず怖ずと挙手をして質問の機会を求めた。 「あの、お訊ねしたいのですが、今日までに、これだけは是非我が物としたい、何かそう思える様な逸品はおありでしたか?」 「いや、お恥ずかしい話…」 と老競売人は火照っ
紅茶に浸したドライフルーツ、温めたミルク、溶かしバター、シナモン、ナツメグ、クローブその他もろもろのスパイス、こんがり焼けたケーキ生地。 エミリア小母さんの作るバームブラックの甘くて、香ばしくて、何だかこんがらがった匂いは、ずっと僕たちの悩みの種だった。だって、僕たちの誰ひとりとしてその御相伴に与ることはとうとう無かったのだから。そのブラックバーンは、唯ひとり、エミリア小母さんのナイトのためにだけ拵えられるのだから。 遠い昔のハロウィンの日、エミリア小母さんがバームブラ
彼の瓦斯人間、いと面白く笛を吹く事から、重要無形文化財に推挙する者が在った。 「いやあ、あの男には正しく形が在りませんからなあ」 「洒落て居る場合では無い。真面目な話をして居るのだ」 「彼の者は笛を奏しては居らぬ、管の中を吹き貫けているに過ぎぬのでは無いか」 「否、唯移動する、そればかりの事を見事芸術にまで高めた者は、他にも居りますぞ」 「ほう、例えば誰じゃ」 「松尾芭蕉」 「ううむ」 議論は紛糾し、結論を見ぬ儘徒に時間ばかりが過ぎた。 「私には、どうにも余所事にしか聞こ
盲の男が通り掛った若い男に訊ねた。 「なあ、空はまだあるのか」 若い男は、意味が分からない、と云う風に肩を竦めた。 「いいや、分かっておる。 空はまだ儂の背を焼き、空はまだ儂の髪を濡らし、 空はまだ儂の金玉を縮み上がらせる。だがな…」 盲の男は頭を上げた。 「或る朝、儂の頬に何かが触れた。 ちいさくて、薄っぺらくて、儂は空に散らされた花かと思うた。 しかし、それはあっと言う間に形を失って、砂に為ってしまった。 儂の指先から、とても厭な感じが這い上がって、
天帝様が執念く逢瀬に水を差すものですから、彦星殿はもう七年も織姫のお顔を見られずにいました。もっとも彦星殿とて、ただ手をこまねいて来るべき晴れの日を待ち侘びていたわけではありません。ある時には、彦星殿は百人漕ぎのたいそう迅い船を仕立てましたが、とても天の河の流れに逆らう事は出来ませんでした。またある時には、彦星殿は丹塗りのたいそう太い柱を立てて頑丈な橋を築きましたが、激しい流星の雨に為す術も無く打ち壊されてしまいました。そして彦星殿は深い深い思案の末に、河の向こう岸までトン
不慮の事故で亡くなって一か月と半分が過ぎた頃から、彼女は時々フッと僕の部屋に現れる様になった。恨まれていたのかと言えば、僕と彼女は誰もが羨むような仲睦まじいカップルだったから、そんな謂れはこれっぽっちも思い浮かばない。 実際、僕と彼女は涙を流して再会を喜び合い、写真フォルダを繰りながら、遊園地に出掛けたことや花火のこと、2人っきりのクリスマスやバレンタインデーのことを、時間を忘れて語り合った。 でも、僕は罰当たりにも、そんなことにすぐ飽きて了った。どうしてって、彼女と話
「困った、困った」 「何をそんなに困った」 「ずっと目を掛けて下すったお爺が亡うなって、あすの食い扶持に困った」 「そいつは困った」 「七年にもなるか、いまさら狩りに出るのも億劫でよ」 「この横着者め。だが困ったと言うなら結構な日雇いがないでもない」 「そいつは助かるの。で、いったいどんな日雇いじゃ」 「と云うわけで、どうかこいつを当番割りに加えてやってくだされ」 「ふむふむ、困った時はお互い様じゃ。わしらの扶持が減ってしまうが所詮は臨時雇い」 「長老様のお情けまことに感謝
かつて御釈迦様はこう仰いました。 ―阿形像を盗まれたならば、 吽形像も差し出しなさい、と。 これは、と俺は差し出された吽形像を前に逡巡した。一組の何かを揃えて発動される類の呪いやも知れぬ。道理を弁えた古物商は最早俺から吽形像を買い受けぬであろう。だが、俺にはあの小太りの老古物商より他に、此んな物騒な品物を引き取って貰える当てが無い。揃わなければ良いのだ、と俺は考える。既に古物商は抜け目無く、金に糸目を付けぬ好事家に阿形像を売り払っているに違いない。俺が吽形像を持ち
「課長」 「おらんけ」 「おりまへんな」 次は、と目を細めて、とうに諳んじているはずの時刻表を見上げる。 「大垣発、14時58分か」近頃めっきり細かい数字が見辛くなった。 「鳥渡、煙草吸うてくるけ」 課長と呼ばれた男は、大儀そうにベンチから立ち上がる。 背を曲げて錆の浮いた階段を登って行く。 滋賀県警米原署捜査3課長、横村康夫。国電の駅に網を張ってじっと待つその捜査手法から、署内では蜘蛛男と呼ばれている。横着者、と揶揄する気味もある。「小母ちゃん、ショートホープ」