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家一軒分の値段がする牛の「すき焼き」

音楽の世界で私の役割とは?

音楽マネージャーの仕事でも、オフィスワークとステージの仕事があって、これはおそらく上司の独断で、特に理由もないのに、お前はステージ、お前はオフィスワークといい加減に分けられていたように思う。私は入社した当時社内で一番若かったので、初めから力仕事と思われていたステージ担当ということになり、しかもほとんどがツアーの担当だった。しかし後になってよく考えてみると、音楽の世界でも確かに特性というものがあって、上司が有能だとは思わないが、それなりに適材適所というか、狭い世界でもその人にピッタリのポジションがあって、上手く振り分けられているものだと感心することがある。

私が担当していた演奏者には、大家と呼ばれる高齢の大物のアーティストが多かった。新進気鋭のアーティストで、これから巨匠への階段を上ろうという人ではなく、巨匠には届かなかったが、すでに名を成して安定した評価とファンを持ち、それなりに安定した人生を約束されているような人たちばかりだった。私はこうしたアーティストたちのコンサートに同行することが多かった。私が望んだわけではないが、おそらくここに私の役割があるのだろう。つまり気難しく、扱いづらく、しかも要は私の仕事は、何かあると差し障りがある偉い人たちとの円滑な関係を調整するのが役目だった。演奏会が終了して、アーティストと主催団体との簡単な打ち上げが終わると、どこからか高級車に乗ったアーティストのこの地域でのスポンサーらしき人がやってきて、彼らから食事の招待を受けることが多かった。

「エスタブリッシュ」というほどに華々しい人たちではないのだが、この地域一の病院の院長、市長もしくは音楽大学を卒業した市長夫人、やはり奥様はこの地域の女子大学の理事長で、旦那が経済団体の頭取か理事長といった人々が招待してくれるのだ。ただ、こうしたホスト、ホステスたちを単なる地方名士だと見くびってはならない。驚かされるのは「贅(ぜい)を尽くした酒食のおもてなし」なのだ。そうは言ってもかなり昔の話なので、今もこうした状況が続いているとは保証できないが、その当時の話として聞いておいて欲しい。

まず接待する部屋や調度、音響設備、部屋の仕掛け、食事メニューや飲み物など、個別に説明しても煩雑だけなので、私の頭の浮かんだその象徴的なものだけを選んで説明しておきたいと思う。例えばお招きいただいたご贔屓の方の家屋敷で言うと、その時分には家業を絶やさない程度にダウンサイジングして事業は続けられていたが、本来は大きな「蔵元さん」のお屋敷だった。そのお屋敷の大きな応接間には、アンディ‣ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキア、ロイ・リキテンシュタイン、ジャスパー・ジョーンズ、ロバートラウシェンバーグ、ナムジュン・パイク、草間彌生など、ポップ・アートの巨匠の作品が100点ほどが広い壁面一杯に飾られていた。ご主人はそれらの作品を私たちに自慢するわけでもなく.また私たちの中にもポップ・アートに特に詳しい人がいたわけではないので、これらの作品は、単なる背景の装飾の様に、私たちの会話を見つめているだけの存在だった。また地方の贔屓筋には途方もないマニアックな人も多かった。世界最高水準のオーディオ機器で好きな音楽が聴きたいと言って、世界に2例しかない巨大な音響設備を備えたお屋敷を訪問したことがあった。

ところが地方の名士は、家でも訪問しない限り、その財産の規模がなかなか見えてこない。お屋敷はさすが「酒蔵」「土蔵」などが敷設されていることもあって、大きなスケールの場合が多かったが、「酒食のおもてなし」の規模は外からは見えない。私が経験した「贅を尽くした酒食のおもてなし」の頂点としては、やはり「和牛」のすき焼きがあった。意外に知られていないことだが、日本全国の「和牛」の始祖というのは、鳥取県の種雄牛「気高(けたか)号」だ。鳥取県畜産試験場の研究検査の結果から、「気高」号の血統を強く引き継ぐほど、オレイン酸含有量が高くなる傾向にあることが分かっている。オレイン酸の含有量は遺伝的影響が大きく、鳥取和牛オレイン55の認定基準には、「気高号の血統を引き継ぐもの」という基準まである。さて「気高号」は、最終的に9,000頭もの子孫を残したと言われている。

この時に食事に招いてくださったのは、実は「鳥取」のお客様ではなく、「鹿児島」で養殖漁業をされている方で、私も初めてお目にかかった人であった、お客様の口上だけが頼りなので、どこまで信じていいのか分からないが、日本中で一番「気高号」の血が濃い一頭が見つかったので、今日は先生方にぜひ味見をして頂きたいと思って、ということだった。この気高号の濃い血を受け継いだ牛のステーキは、比較した経験がないのでいう言葉もないが、無条件においしかった。この人の番頭格の人が小さな声で私に、「あの牛一頭で、大きな家一軒が建つのにな~」と話しかけてきた。大きなことを言いたがる人はどこにでもいるものだが、私はこの時これは本当の話だと直感した。そしてまた、お金持ちにとって人に御馳走するということは、これくらいのことを言うのだろうと納得した覚えがあった。
私たちの食卓の「平均像」はどの程度のモノか想像はつかないが、きれいなさしが入った気高号由来の霜降り肉を見ながら、日本人の食卓の平均像は、一頭の「気高号」の登場によって、平均単価が大幅にアップし、その分わが家の食卓の平均像が一気にダウンしたような気がしたものだった。


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