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「雷」の爆発的な迫力を描いた絵画は?

雷は無条件に恐ろしい

ごく最近、私の住んでいるマンションに大きな雷が落ちた。と、錯覚するほどマンションの近くへの大きな落雷があった。これほどの大きな雷なら、だれもがそう思うのではないかと思う。しかし落雷直後の物理的なショックから少し経って、いくぶん冷静になると、落雷の現場はこのマンションではなく、近所だったと認識できるようになる。結果を言うと、私のいるマンションから二軒先のホテルだったようだった。もちろん落雷したと言っても避雷針に落ちたので、腹の底にずしんと響くような落雷の音にわずかに先駆けて、天空と避雷針を結ぶ高輝度の白色の光が、京都の黄昏時の空を走った。雷はすこしづつ遠ざかりながら、しばらくは北山の辺りを活動の場にしていたようだが、やがて雷の光も音もずいぶん小さくなって、他のことに気を取られている間に、聞こえないくらいの小さな音でゴロゴロと辛うじてその存在感を主張するまでに衰えていった。私は京都の下京区に住んでいるが、地形の関係かどうか、比較的激しい雨の日は、大阪と京都と奈良に接する京田辺の近辺から、あるいは大阪の方から落雷の音が聞こえてくることが多いような気がする。

俵屋宗達の「風神雷神図」には、落雷のリアリズムがない

それはともかく、稲妻や雷鳴と言えば「俵屋宗達」の「風神雷神図」を思い浮かべる。単純に連想するというのではなくて、昔の日本人アーティストにとってあのダイナミックな自然現象を絵画として表現するのは難しく、やはり抽象化されたものにならざるを得ないのかという思いがあってのことだ。江戸期の画家・伊藤若冲などならば、もう少しリアリティを追求できるのではないかと思うが、大きな落雷の一瞬は火山の大噴火に匹敵するダイナミックなものなので、日本の絵画に大きな落雷のリアリティに迫ったと言えるものはあまりないと思える。
俵屋宗達の「風神雷神図」もさすが見事な作品だが、かといって雷光と落雷の迫力やリアルさはまったく伝わってこない。アーティストとしては、当然、大噴火や雷鳴、落雷のダイナミックな様相を描きたいと思うのだろうが、私の想像ではそのモデルとなる作品はなかったのだろう。

しかし自然の抽象化においては、日本の絵画に勝るものはなく、とりわけ浮世絵における抽象化の力量は驚くものがある。もっと言えば抽象化の極限を通して、日本的リアリズムを追求して欲しい。その象徴ともされるのが葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の「神奈川沖浪裏」という作品で、一般には「波越しの富士」と呼ばれていると聞く。この卓越した技量をもってしても樹齢数百年の巨木を切り裂く落雷の瞬間や、人間の色彩をすべて奪い去るホワイトアウトの刹那はいまだ描かれていない。ぜひその力量を駆使して、抽象化の向こうにあるリアルな落雷を描いてほしいと願うのは私だけだろうか。


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