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「喜怒哀楽」の❝怒❞

人間は怒ってなんぼ

「喜怒哀楽(きどあいらく)」という言葉があるように、人間には当然「喜怒哀楽」といった感情の表出がある。ところが、最近では露骨に感情を表す人が少なくなってきているような気がする。実は大阪の「中央大通り」の北側の歩道を東から西に向かって歩いている時、突然中央大通りの車の騒音を凌ぐほどの男の人の大きな声が耳に飛び込んできた。声が聞こえてくるところは、私の歩いている場所から一〇〇メートルほど離れていて、男の人が何を言っているのかはよく分からない。
しかし、その男の人の怒りの声に何やら無視しがたいリアリティがこもっているような気がして、その男の人が何を言っているのか知りたくなり、男の人が大きな声で怒っているところに急いで向かっていった。その騒ぎから五〇メートルほどのところまで近づくと、「恥ずかしくはないのか!」という大きな声が聞こえてきた。さらに喧騒の現場に近づいていくと、その騒ぎの全体像が理解されてきた。

無茶、無法に挑む老人の怒り

ビルの開け放しの三階の窓の真下に大きな一〇トンのダンプカーを留めているのだが、ダンプカーの荷台がビルの二階の窓のすぐ下に位置することになる。そこで、三階の窓から斜めにダンプの荷台まで頑丈の板を敷き、その板の上をダンプの荷台まで机やロッカー、事務機、その他もろもろの廃棄物を滑り落していたのだった 。本来ならそんな乱暴な方法を取らないような気がするのだが、よほど業者が乱暴だったのか、歩道一杯に一〇トンのダンプカーを遠慮なく留めて、何の気遣いもなく三階の窓から巨大な事務機などの大型ゴミがボコボコ捨てられていく。その最中に窓の下を通ろうとした七〇代半ばくらいの老人が、その無法に対して堂々と正義の声を上げているのだった。その老人は、歩道に厚かましく置かれたダンプカーによって、ビルの前の歩道を通行することができず、まずはそのことに対する怒りの声だったのだろう。「恥かしくないのか!」という大きな怒りの声は、自分の通行が妨げられているという私的な怒りのレベルを超えて、こんな世の中になってしまったのか、という絶望的な叫びにも近いものだったように思う。ダンプカーに廃棄するロッカーや事務机を乗せようとしている業者たちは、この老人の怒りの声に対して、身の回りに一匹の蠅が飛んでいるほどの関心も払わず、そのまま作業を黙々と続けている。老人は、あからさまな作業員たちの無視の姿勢に対して、少しもひるむことなく、まずます大きな声で「恥ずかしくないのか!」と叫びつつけていた。やがてこの騒ぎを知った通行人が数多く立ち止まり始め、それを知った作業の責任者がやってきて、やがて作業半ばでダンプカーはどこかに退却した。

正当な怒りは周囲を浄化する


私はこの騒ぎの一部始終を見ていながら、作業員に対して少しの抗議の声も上げられなかったのだが、その自分自身への不甲斐なさ、惨めさを自覚するより先に、この老人の純粋な怒りのエネルギーにただただ圧倒された。老人の頭髪は短く切りそろえてあったが、怒髪天を衝くほどに怒りが燃え上がっているように見え、人のまっとうな怒りが周囲を浄化するものであることを実感することができた。
私は日頃から、怒りのネタは無限といっていいほどたくさんあったものの、実際に人に対して怒りを向けることはほとんどなかった。そして思うのだが、人の正当な怒りは、確かに周囲を浄化する。私たちが怒りを忘れてしまうほどに、世の中ではよこしまなものがますます横行する。「恥ずかしくないのか!」の老人に出遭って私は、「怒り」が人間にとっていかに正常で重要な感情であるかを知ったのだった。


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