「喫茶」する気持ち
人はなぜ外に出て「喫茶」するのか
私に記憶のある範囲の中だが、私は中学生の頃から喫茶店に出入りしていた。最初のきっかけは、私が中学生の頃に住んでいた家の近所に、わが家が親しくしていた一家が喫茶店を開いていたからだ。その家は元々喫茶店を営んでいたのではなくて、昔は布団屋だった。詳しい事情は知らないが、ある時布団屋を閉めて、喫茶店に転業したのだった。その家が布団屋を営んでいた時は、その布団屋に主人の他に倉敷から大阪に出てきていた若い店員がいた。その店員がなぜか私のことを気にかけてくれて、布団を配達するときに大きなオートバイに乗せてくれた。ただ大型のオートバイに乗って配達先まで行って、配達が済めば店に帰るだけなのだが、中学生だった私にはかなり楽しい時間だった。もちろん、アルバイトとかではなく単なるオートバイの同乗者として配達に付き合っていただけで、荷物を上げ下ろしするなど、ほとんど配達の役に立っていなかったに違いない。私は、自分の足では歩いて行けなかった遠方まで行けるし、ふつう訪れることのない牛舎や、少し郊外にあった荒廃した集落に行けるのが楽しみだった。
蒲団屋が喫茶店へと劇的な商売替え
ところが、ある日からその布団屋が突如喫茶店になったのだ。基本的には家族経営で、親父さんと奥さんが店にいて、例の蒲団屋の店員だった若い人もそのまま喫茶店の店員になっていた。その頃、テレビ放送は始まっていたが、まだテレビ受像機は一般家庭にはほとんど普及していなかったので、この喫茶店にテレビ受像機が設置されると、喫茶店はコーヒーを飲むところというよりもテレビを見ることができる場所と見なされるようになっていた。今から思えば大した番組があったわけでもないのだが、中学生の私から見れば、一日中でもテレビを見ていたいと思っていたので、まさにこの店は娯楽の殿堂だった。
私は店のオーナー家族とも懇意で、店員とも親しく付き合っていたので、つい喫茶店に足が向くのだが、お店のマスターであるご両親や店員が私の訪問を必ずしも歓迎していないことが何となく分かってくるものだった。私は布団屋を訪問していた時と少しも違ってないという認識だが、訪問先が喫茶店であってみれば私は一人の客になる。客という事になればお金を持って行って、何か飲み物を注文する義務があるものだが、私はそんなことを全く知らずに店を訪問していたことになる。私が店を訪れると、オーナー夫婦や店員の友人は、いつもミルクか紅茶を出してくれるのだが、私はそれを不思議なことだとは少しも思っていなかった。
ところが近所の人は、中学生の私がお金も持たずに毎日喫茶店に通っているのを見て、私の母にそれとなく注意をしてくれたのだと思う。そんなことがあってから、母から喫茶店に行くことに関して厳しい条件を付けられることになるのだが、母は割合と鷹揚(おうよう)な人だったので、店に行くことが禁止されるという事はなかった。つまり、喫茶店には一週間に一度、それもテレビが好きだった祖母の引率者としての立場だった。基本的に祖母が好きな歌謡番組を見るためだったが、喫茶店に行くのは昼間が中心で、プロ野球中継など、私が好きな番組が見られたことは稀(まれ)だった。と同時に、テレビ受像機の普及が思ったより早く、間もなく私の家にもテレビが置かれることとなったので、私たちがテレビを見るためにこの喫茶店に通ったのは、ほんの少しの間だった。しかしこのわずかな間に、私は喫茶店で時間を過ごす愉悦(ゆえつ)を覚えてしまったのだった。
喫茶店で私は、何を求めているのだろうか?
私はその後、高校生、大学生の時代を経て、サラリーマンとして企業に勤務している間も、自分が経営者として企業経営に携わっているときも、目的もなくふらっと喫茶店を訪れる習慣は、途切れることなく今に続いている。若いときには、喫茶店にいる可愛い店員さんが、その喫茶店に顔を出す動機にもなるが、私の場合はそんな期間はほとんどなく、いざ私が多忙な時間を割いて喫茶店に行く理由を問われたら、私には人が納得できる理由をうまく答えられない。
いま毎日のように顔を出す家の近くの喫茶店は、年寄りのマスターが一杯一杯のコーヒーをドリップで淹(い)れてくれるほか、取り立てて説明できる特色もない。ただ私には、中学生の時からこうして喫茶店を訪れてコーヒーを飲むことが必要なのだということは本能的に分かっていた。人が納得できなくても、あえて言えば、パソコンに残された無数のデータの断片をかき集めてやがて排除するように、長い人生で頭の中に蓄積された記憶の断片を整理して頭の中を爽快にするために必要な作業だと思うようにしている。
実際はそんなことで脳の中の記憶の断片が整理されて、頭脳の空き容量が増えるとは思っていないが、生理的な感覚としては、つまらない記憶を集めて廃棄してくれる装置としてみれば、私が喫茶店に通う理由にはなっているような気がするのだ。