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喫煙文化の残り香

私は煙草好きな少年だった

私は高校生の時から煙草を吸っていた。男の兄弟は4人いたが、成人して10年以上も煙草を吸っていたのは私だけだった。といっても、私もかなり昔に煙草を止めたが、止めるのは思っていたよりずっと簡単だったのが意外だった。ただ煙草を吸っていた頃の習慣が、今も手に残っているのが不思議で、いまでも、自然に煙草を手にしようする仕草が抜けない。ところで、煙草と言うのはとても不思議な文化だ。作家の安部公房が「煙草は、気まずい時間を消費する道具だ」などと言っていたような記憶がある。一言一句正確かどうかは自信がないが、それを聞いた時、かなり煙草の本質を言い当てた言葉だと思った。私は煙草好きだったので、現在のようにどこでもかしこでも煙草が袋叩きに遭っているのを見ると、かつてのユーザーとして煙草の文化みたいなものを少し言葉にしてみたいと思うのだ。
大方の人が知っていることだと思うが、煙草はアメリカ大陸原産で、アメリカの気高い先住民の文化の一つだった。コロンブスが先住民を徹底的に殺戮し、金やジャガイモ、トウモロコシなどとともに、ヨーロッパに持ち帰ったのだが、煙草は嗜好品ではなくて医薬品であり、またアメリカ先住民の宗教行事に欠かせないものだったと言われている。

現代の存在意義を失いつつある「喫煙文化」

煙草を医薬品としてどのように活用していたかは、おそらくは専門の研究者がいると思うので、興味がある人は調べてほしい。煙草に関しての現代の主要な議論は、煙草の健康に対する害だと思う。これは私たちが医者でない限り判断しようのないことであるが、ユーザーだった私から言えば、確かに気管や肺に対してはストレスがあると思う。ただ、これも私が微妙に感じていることだが、私たちの寿命は相当に長くなった。かつての40年、50年の寿命を前提にすれば、煙草が人間にとって致命的な害悪とは言えないと思う。かつての日本にあったように、町や村の辻々で好々爺たちが煙草を手に語り合っている姿は、ある意味自然なことのように思える。この辺りは、人間の幸せをどこに置くかによって相当に変わってくるので、何とも言えないが、寝たきりで100歳まで生きることに価値を置けば、確かに煙草は悪いものであると断言できるだろう。

煙草は現在嗜好品として使用を奨励されているとまでとは言わないが、少なくとも商品として販売することや、喫煙は許容されている。この辺りは文化的にも微妙なとこだが、元ユーザーとして誤解のいくつかは否定しておく必要があると思う。煙草の嫌いな人は、煙草の煙の臭いを絶対悪として非難するが、実のところ、その日最初に吸った一本目の煙草の煙、特にバージニアブレンドの煙はいかにも香(かぐわ)しいものだ。煙草のアロマとでも言うか、そうした香しさはすぐに拡散して煙草独特のヤニ臭くなってしまう。煙草好きな人は、それでも煙草の煙を愛でている。
煙草が好きなのと、葉巻が好きなのは別物と聞いているが、私が若い時、横浜に宿泊する時は昔の外国人ビジネスマンや船乗りの定宿になっている大きなホテルに泊まったものだった。部屋のクロスに長年の葉巻の香りが染み込んでいて、今考えれば他愛のないことだが、自分が世界を股に飛び回っているビジネスマンだと思えたものだった。

文化界を担っていた「喫煙文化」を葬るには、

心からなる尊敬と追憶を込めて


現実的に考えれば、まだしばらくはなくならないが、やがては煙草文化は失われた文化になるだろう。そうした視点で考えてみると、煙草文化の美学は歴史的に忘れたくない輝きを持っている。テレビでかつての名画たちを見ていると、数々の名優が煙草文化を自らのものとして、煙草とそのゆらぐ紫煙に多くの人々の心と、人間の運命を語らせていた。煙草と言うのは、人間にとっての健康という「錦の御旗」となった嫌煙運動によって、たちまちこの世界から追放されようとしている。「煙草」と言う言葉を耳にするだけで、みんなが顔を見合わせて顔をしかめる文化風土であってほしくはない。必要がなくなったものを葬り去るのも人間の仕事の一つかも知らないが、おそらく千年程度の歴史を持った文化、私たちが馴染んできた文化を葬る時には、その文化への尊敬と追憶を込めて、丁重に送り出す文化が欠かせないと思うのだ。


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