lifedrop
なぜ9月にいるのか分からないし、lifedrop!のリリースを迎えられたことが奇跡のように感じる。それはおそらく喜ばしいことなのだろう。
一番気持ちのいい温度を目指した17℃をリリースし終えて、特に次のアクションを決めるわけでもなく、自然とアルバム作りへと向かった。順調に最初の2曲ができて、さあ3曲目というところで流れが止まった。その時点で新しくまた2曲できたわけだが、どうにもアルバム用に作った2曲と雰囲気が合わない。まだおれは17℃をどこか引きずってるみたいだった。なので一度流れを止めて、この溢れた2曲のためにEPを作ることにした。そうして出来た4曲がlifedrop! ちょうどアルバムを作りながらその瞬間に溢れてしまった4曲だ。
おそらく作ったのは7月後半〜8月の頭だ。その瞬間のおれのバイブスがドロップされていて、それもまた生の痕跡になったと思う。おれの生からふと溢れでたからlifedropと命名したわけで、そうしたlifedropを誰しもが何らかの形で溢れさせている。それは曲という創作物に限らず、SNSにポストした140バイトにも満たない投稿かもしれないし、ログの残らない会話における発話の高周波数かもしれない。ひとつ言えるのはそれは再現性なくあなただけが溢したものだということ。あなただけが観測できる世界で、あなたの歴史とあなたの現在が溢したlifedropであるということ。それがポジディブであれ、ネガティブであれ、それは独自性を持つ。そうやって溢れたものが、おれが、あるいは誰かが観測し紡いだり反発した集積が文化だとおれは思う。lifedropは瞬間的に溢れ、歴史的に積み上がっていく。
いつか2000年、あるいは1億年先の文明の滅んだ未来で、別惑星、別宇宙の誰かがおれたちのlifedrop、そして願わくばおれとあなたのlifedropを発見してくれることを祈っている。そう考えて死ぬことは、多少は慰めになるはずだ。