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ineverforgetu
オレシュニクの騒ぎから特にウクライナ-ロシア戦線は大きく動くことはなく、代わりにアレッポとダマスカスが陥落し、ユンが韓国で乱心のまま戒厳令を出し、そのままに弾劾された。12月も世界はうねりながら静かに進んでいく。おれはその間、ライブやDJをたくさんこなした。
月初めのライブは何とも孤独な気持ちになった。vqのパフォーマンスに圧倒されたのもそうだし、何よりおれはまだvqやmareno!、あるいはフランクオーシャンやBon Iverのような深さには達していたつもりで達していなかったのだと気づかされた。おれなりのダイブを今年一年間続けていたけれど、たった一年のダイブでは足りなかった、あるいはもっと濃い密度の一年を過ごす必要がある、毎週のようにコンテンツを出していたとしても。方やその2日後のDJではおれの音楽を本当に好きで聴いてくれる人たちに会った。本当にどこからおれを探してきたのだろう、と思う。そしてそういう人たちは皆Peterparker69が好きで、おれはなるほどと頷かされることになった。そしてほしのおとで布団に座ってDJを聴きながら、また何とも孤独な気持ちになった。おれのやってることはおれ以外はやっていないんだ、と気づかされる。今年一年かけたダイブの結果は、おれ自身がオリジナリティを確立する一方で、だれもいない道へとおれが歩く羽目になってしまったことだろう。それは避けがたい孤独であるようだけれども、実際直面すると銀河をまるごと吸い込む穴のようにとてつもなく巨大な孤独に感じられた。そこにはswagはないし、同じ夢を叶えるためのクルーもいない、少年期を共有できる同年代もいない、この暗がりの道を歩くのはおれだけで、歳をとっていくたび舗装された道も街灯もどんどんと無くなり、最後は夜の森の中に消えていくのだろう、と思った。
神楽音に久しぶりに訪れて3年前のことを思い出した。あの頃は消耗していたし、何かどデカいことをやろうと躍起だった。それ故に潰れてしまった。濃い密度で暮らしていくことは一方で生活を追い込むことであり、そういう一年を今年は過ごさなかった。強度を上げていこうという気にならないのは、いまがそれなりに充足していて、数字の面でも結果が出ているからだ。より深いダイブを行うために更に負荷を上げていくのか、それとも現在の生活を維持していくのか、という選択に迫られている。そういう生活からアンビエントは溢れでるとも思う。今がある程度正しいということがおれを悩ませている。
福岡は不思議な経験だった。おれはおれなりにライブをして、おそらくそれなり、だったと思う。そこにはポテトチップスで生け花する人もいたし、レシートを分別するライブをする人もいた。vqのiphoneから小さく流れる音を、観客みんなが息を潜めて聴いたりもした。こういう自由を守る前提を守る必要がある、と思った。これが良しとされる感覚と社会が存在することをどうしてもおれたちは守らなければならない。vqとたくさん話せたのも良かった。楽曲だけでは見えてこなかった彼のユーモアや歴史に触れられたのが良かった。なんだか友達になれたような気がした。
この12月を通して、本当におれの曲が好きで聴いている人がいる、ということを直に感じた。これは本当にヤバすぎる。おれが特にマーケットも考えずに、ただおれにとって良い曲を作っただけなのに。おれはおれの生を転写するべく今まで曲をアップロードしてきたけれど、少なからずおれはおれがいなくなっても忘れられない可能性は増えたんじゃないだろうか。それと同時におれに対してアクションをしてくれた人たちを忘れたくない。これから森の中へ入っていくこの道の、胸の内の灯火として、あなたがたを忘れないように、と。