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1月/drone

早起きして曲を作って事業所行って本を読んで諸々雑務をこなして…大きな躁にも鬱にもならずにそんな日々を半年以上もこなしている。時々不安になる、このルーティンが突然崩れて何もかも立ち行かなくなるのでは、と。半年以上もこの習慣を続けているというのに、そうした不安は募るばかりである。明日が今日のままなんて希望は持てない。結局、世界もおれも根本から変わったわけではないとこの不安は痛感させる。

おれたちは特別でもない平凡な日々や事柄を特別のように扱う。おれたちの特別への感性はSNSに搾取されてしまった、と思う。プラットフォームとサイバースペースを社会と心に内面化して、外部のない内部はさらに広がり深くなってしまった。異界はどこだ?外宇宙の神はどこだ?形容しがたい何か。おれたちは特別を取り戻す必要がある。人生と外部の物語のようなものをケーブルのようにクロスさせて、ここにいながらシフトする必要がある。特別は他者だ。他者が特別なのではなく、特別は他者性をもつ。おれたちは平凡なものを特別に仕上げるのではなく、特別そのものに、ベッドに伏せながら、あるいは散歩しながら、あるいは満員電車にのりながら、飛び移らなければならない。

あの物語とここの生活の境界に外部は存在するのかもしれない。物語そのものはヴァーチャルだが、それが生活と結びついたとき産まれる境界線、緩衝地帯に外部へと続く井戸が存在するのではないか。だとすれば、音楽的能力だけではなく文藝的能力もおれたちに必要なのではないか。脚本ではなく、物語を形成する力。そう思うとたしかに世界は物語と生活の結びつきに欠けていたと思うし、いまの消費形態はそれを失わせてるとも思う。おれたちを流動させて規範づける、法ではなくイデオロギーでもない、文藝的物語を産み出すのだ。

Echoes。大阪から帰った身体はどこか眠くて足も少しばかり軋んでるような気がする。何度も寝ながらたまに見る変な夢も、それも一つの境界線なのかもしれない。その先が砂漠であろうと、どこにもいけないまま埋没していくことはしたくない。生産性に絡み取られるな、仲間のエコーチェンバーで硬直するな、とにかく移動する幾星霜、一月。

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