空っぽの棺
谷中のscai thebathhouse で行われている遠藤利克の個展にいってきた。
彼も作品も初めてだった。
まるこげに焼かれた棺。
散りばめられ、粉々になっている鏡。
不在。
鏡には私の全ては映らないし、
棺の中も見えない。
全部を見ることは出来ないし、
この世界そのものが棺の中なのかもしれないな、とも思う。
棺の中が全部鏡だったら、それは鏡の中の世界になるのかな。でも、死んだ人は自分を見ることはできない。
鏡が映し出すのはなんのだろう。
遠藤さんの「聖性の考古学」という本で、
葬儀とか供養とかいうのは死んだ人のためではなく、
生きて残された自分たちのために行われるものだというふうに書いてあった。
それにはすごく納得した。
残された自分たちの死を恐れて、死というものが単なる終わりではないことを形づくるための儀式だ。
そうすることで自分がなくなること、不在になることへの恐怖を打ち消そうとしている。
私はちょうど映画の「おくりびと」をみたばかりだった。
彼の作品を見た後にそれを振り返ってみると、
確かに葬式とか納棺の儀式とか、そういうのは全部残された側の自己満足だし、こっち側がそうしたいからしているだけなんだろうなと思った。
亡くなったことに対する意味付けとか、区切りとか。
棺の中身がわからないように、
木の幹の中身だってわからない。
もしかしたらその中にも、死者がいるのかもしれない。
死者ってそこにいてもいない。
存在するのに不在。
空っぽの棺もそこにあるのにないみたいだ。
私たちは空っぽの棺でしかないのかもしれないな、
とか考えている。