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トンビと鼠とキリスト

  著名な児童文学作家で、谷真介がある。相当な数の作品を発表しているが、彼の仕事のひとつに「キリシタン童話昔ばなし」がある。おそらく、その仕事の集大成、または基礎となった著作が、新版『キリシタン伝説百話』(新泉社、2012年)である。

 控え目にいっても珠玉にして出色、最高峰のキリシタン文学短編集だと思う。本書が収録するのは、日本土着の民話とキリシタン伝承の融合した諸伝説である。一話毎に感想を綴りたいほどに美しい。誤解を恐れずにいえば、これこそ、日本語で書かれた福音書と言っても差し支えない。

 もっとも、文体の格調、文学性の高さでいえば、おそらく『きりしとほろ上人傳』には敵わない。同作品は言うまでもなく、天才・芥川龍之介の筆による。各聖伝を絶妙な配分で織り成し、日本的にアレンジしている技巧には舌を巻く。

 しかし、谷が収集してくれた『新版 キリシタン伝説百話』は、その膨大な註を含め、四福音書の記憶にあるパレスチナの土埃のような、素朴な味わいがある。鼓直が教えてくれた、ガルシア・マルケス『エレンディラ』の物語の一場面にあってもおかしくない味わいなのだ。無論、マルケスのほうは、芥川の方に寄せて考えるべきだろう。

 とにかく、言いたいことは、谷の仕事の素晴らしさである。冗談ではなくて、どういう形になるかは分からないが、ぼくは谷の仕事を継承したいと思っている。そう思わせてくれるほどに素晴らしいのだ。(実は素晴らしすぎて、この1年ほど、これについては書かないでいた。)

 たとえば、最近読んだ箇所でいえば、第69話『ねずみの昇天』と第70話『とんびとねずみ』。前者は愛知・葉栗、後者は岐阜に伝わるという。何れも「禁教の時代」となった1670年代の前後だと云われる。

 あらすじはシンプルで、禁教下、キリシタンがお縄となった。しかし彼らは妖術でネズミになり、トンビがそれをどこかへ連れ去った、結果、キリシタンが逃げ果せた、という話である。

 『ねずみの昇天』では、大迫害で出た二千とも三千ともいわれる殉教者の死体を埋めた「大臼塚」(ダイウス塚!)からキリシタンがネズミとなって復活し、トンビに乗って逃げた、という。誰でも思い至るだろう。きっと殉教者の死体に群がり食したネズミを、さらにトンビの大群が狙って食したのだ。

 『とんびとねずみ』では、捕縛され殉教しようとしたキリシタンが、最後に一度皆さんに術を見せたいと懇願して、一人がネズミとなり、もう一人がトンビとなって逃亡し、殉教を免れた。

 谷によれば、この類話は全国各地に分布している。新潟県に伝わる昔話には「三人泥棒」という話が残っており、一人が豆となり、もう一人がその豆を咥えたネズミとなり、さらにもう一人はそのネズミを咥えるトンビとなって逃げた。

 また「希代の幻術師」として知られる「果心居士」にも同様の類話があるらしい。興味深いのは、この果心居士が若き日に修行として南蛮船に乗り込んで、そこで幻術と妖術を得たといわれている点だろう。

 谷はさらに伝承の古層を求めて指摘する。どうやら「とんびとねずみ」の術については、中国の古典説話集『太平広記』76巻「方士」にも同様の話があるらしい。典拠として、沢田瑞穂『中国の呪法』が挙げられている。

 第71話『八兵衛の夜泣き石(東京)』では、宗門改・井上筑後守政重の「キリシタン屋敷」にあった、不思議な石について語られる。逆埋めにされた若き殉教者の墓石として置いた石に話しかけると、すすり泣く声が聞こえた、という話だ。

 谷によれば、日本には女性が悲哀や憤怒のあまり石化するという伝説は多いらしい。「女性の石化」と聞くと、塩の柱となった「ロトの妻」を思い出す。もちろん彼女は黙したまま岩塩となってしまった。しかし、夫には捨て置かれたその無念は、想像に難くない。日本だと怪談になりそうである。

 いわく、石化のみならず、泣いて会話する場合もあるらしい。そのあたりは、柳田國男『木思石語』『夜啼石の話』などを参照せよ、とのこと。

 さて「トンビと鼠とキリスト」である。実は、この記事は、谷の仕事があまりにも素晴らしいので紹介したいがために、思い付きで記した。だから、すでに記事化した時点で目標は達成されている。

 「トンビと鼠とキリスト」、こう並べてみると、まず思うのは、C.S.ルイス『ナルニア国物語』に出てくる、ネズミの族長にして騎士なるリーピチープ(Reepicheep)である。彼の活躍については、瀬田貞二の名訳に譲るとして、ここでは措く。

 では「トンビと鼠とキリスト」は何を意味しているのか。ぼくは谷の仕事のどこにそんなに魅かれているのか。それは、谷の仕事が、宗教と文学のあいまいな境界線を名指しているからである。

 宗教と文学の共通の機能の一つは、どちらも「現実」という「私の視点」から生成される意味世界に、異なる眼差しをもたらすことにある。いいかえれば、相対化されるのだ。ぼくは谷の仕事に、または、キリスト教と日本民俗の混淆する「日本語キリスト教」に、その曖昧で、新たな地平を見いだしている。その地平は、「太平洋弧と近代日本」の見方を変える水平線の導入でもある。だから、感動してしまう。

 柳田國男が見つめていた「世界民俗学」を、ガチガチの伝統主義キリスト教神学の視点から始め、その果てを見つめたら何が見えるのか。狐火のように海上に揺らめくその道は、何を示しているのだろう。柳田や谷ら先達が、はるか古代の中国より続く系譜を示してくれた伝承の道の果てに、キリスト教と日本語が溶融し、その輪郭をわずかに残すデタラメであいまいな場所に、後継のぼくらは何を見、何を探るべきか。

 久しぶりに一日休みとなったので、贔屓の喫茶店でこれを書いている。やっぱり、ぼくの日常はこうでなくちゃ、と思う。そう思ったら腹の虫がテナーで鳴った。夕餉は何にしようか。

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