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宗教の発生と食に関するメモ

 研究の合間、夕食としてコンビニで大根オクラを買って暗い鴨川のほとりで混ぜながら、ふと思った。人類が肉食獣として進化し地球を席巻したのち、その大多数がアブラハムの宗教を奉じ、その宗教の核が「動物犠牲の祭儀による罪の赦し」にあるの、偶然だろうが示唆的だな、と。つまり宗教の発生と食の関係について知りたいのだ。

 思いつきの元ネタは、最近の人類学の成果として「人類は進化の過程の大部分において肉食だった」という説があるという話。根拠は胃酸の濃度らしく、なるほど、なかなかに説得的だと思った。

 一般読者だから単にそう発表されたという事実を聞いておもしろがっているに過ぎない。しかし、もしそうだとしたら、肉を食べること、血を流すこと、その正当化として「動物犠牲を求める神」が求められたというのは、なかなかに魅力的な説だと思う。

 ただ素人なりにも問題は感じている。たとえば、宗教の発生時期である。そもそも勉強不足だから、よく分からないが、ぼくの理解では人類は、以下のような進化をたどった。元ネタは『裸の猿』『ヒトはなぜヒトを食べたのか(食人族と王 文化の起源)』である。

『裸のサル』

 まず前者デズモンド・モリス『裸のサル:動物学的人間像』から紹介したい。本書の第一章は「なぜ人が裸のサルなのか」についての主要な仮説を検討しながら、人類の進化の黎明期を記している。現在、この説が主流か否かは判らない。いわく元々、人類は果実や虫を食べていた。しかし森での競争に負けてサバンナへと降り立ち、直立二足歩行、道具を使うようになった。結果、道具を使って獲物を追うようになった。

 つまり、捕食性の哺乳類へと、おそらく百万年はかけて進化した。結果、オオカミやライオンなどの大型肉食獣でも、雑食性なりベジタリアンの他の類人猿(ヒトニザル)でもない、肉食型・捕食性のサルとなった。

 他の哺乳類のように「毛がない」理由は、ネオテニー進化、性的記号、水棲化、種族の識別記号など、いろいろ考えられるが、どれも一長一短の説で決めてに欠く。誰もが思いつく「体温調節」や「保護」は、実は説明にならないそうだ。他の哺乳類と人類の体毛数は、ほぼ同数らしい。しかし、人類のそれは「毛皮」とは呼べないものだからだ。

 一方、ぼくが大好きなロマンチックな仮説もある。「人類の祖先は一度水棲化した」という説。説明可能な部分が多い仮説ながら、証拠がない。岩井俊二が映画化していたし、ホモ・アクエリアスという語を聞いた人もあるだろう。

 結局、蓋然性の高い説が残る。つまり、道具を持って獲物を追跡する際に獲得した「汗腺」と「皮下脂肪」と、人類は「毛皮」を交換した、という説だ。とまあ、そんなわけで人類とチンパンジーは、約700万年ほど前に分岐して、ヒトは「裸のサル」となり、この50万年で火の使用に始まって、狩猟採集から農耕へと移行し、富とカロリーを蓄積した。蓄積したものを守り奪うために、いよいよ戦争と国家を必然的な文化として開発し、この百年でついに宇宙空間へと到達し、ハンナ・アーレント女史の感動的な冒頭句へとつながり、SFにおいては、ピカード艦長の名言"Space... the Final frontier"が語られる。 

『ヒトはなぜヒトを食べたのか』

 では後者マーヴィン・ハリス『ヒトはなぜヒトを食べたのか:生態人類学から見た文化の起源(原題「食人族と王 文化の起源」)』を紹介しよう。こちらでは著者いわく、太古の人類は動物を食べ尽くし植物食にもなり、農耕と牧畜が始まった。結果、余剰カロリーと富の蓄積によって、文化として「戦争」を開発。戦争に最適化する過程で女系社会を経由して、部族やバンドを超える国家をつくり、結果さらに国家が生まれた。

 国家は、動物を供給するために、宗教に食の可否を正当化させた。事例としてアブラハムの宗教の「豚」、インドの「牛」禁忌があげられる。

 ユーラシア大陸では家畜が食えたが、中南米では大型の哺乳類が洪積世(約258万年前から約1万年前まで、だいたい氷河期)には絶滅していた。結果、中米アステカ文明(1428-1521)のころには、食える家畜がおらず、アステカでは食人が国家と宗教によって制度化された。つまり、「人類の営み=文化は、環境に規定される」というのが著者の主張である。引用しておこう。

再生産の圧力、生産の強化、環境資源の枯渇が、家族組織、財産関係、政治経済、食事の嗜好や食物禁忌を含む宗教的信仰などの進化を理解する鍵となるように思われる…食人習俗、愛と慈悲の宗教、菜食生活、嬰児殺し、生産のコスト=ベネフィットのあいだに私が指摘する因果関係…(中略)諸文化は概して、生産、再生産、生産強化、資源枯渇の諸過程についての知識をもってすれば大体予測できる、同方向に収斂してゆく経路に沿って進化してきた

「宗教の発生」の人類史的な位置は?

 ぼくの人類史に関する知識は、この程度であって、基本的に何もしらない。そして冒頭の思いつきに関係して、これらのことを思い出して思う。人類史のどこに「宗教の発生」を置くことができるのだろう。

 憶測であり妄想に過ぎない。しかし、森から追い出されてのち、つまり二足歩行が可能になり、脳が発達し、道具を使えるようになり、投擲能力と持久走力、そして強力な胃袋を入手した時点で、人類は宗教性を獲得していたのではないだろうか。

 なぜなら投擲能力と持久走能力、また胃袋こそ、人類の抽象化・記号化の基礎のように思えるからだ。投擲能力と持久走の力は、対象を把握し、そこまでの距離を測ることを意味している。そして、狩猟のために移動し群れで狩りをしたのならば、追い込むために、自分たちの位置と対象の位置を抽象化しなくてはならない。つまり、空間を抽象的に把握し操る能力である。

 当然、それは一般に動物に備わっていると思われる、同種族を識別する能力だけでなく、毛皮を持たないがゆえに擬装する能力にも進展したであろう。

 また生態系において一度敗者となったことで得た強力な悪食の力は、料理という形で消化機能を外在化させることにつながったのではないか。この色の果実なら、この匂いの肉ならば食べられる。しかし、塩水につければ、またはこの葉を併せれば、まだ食べられる。そのように分類し識別する能力は「食べ物」に多義性を与えなかったか。そして、おそらくそこに偶然山火事か何かで焼けた野菜や肉が現れた。そして「料理」の発明へとつながった。

 E.カッシーラーの象徴を操る動物としての人間、つまり、哲学的人間学の分野においては、これらのことは問いつくされているのだとは思うが、新たな研究成果に基づいて、それらは刷新されねばならないだろう。残念ながら、ぼくにはその力はない。ただ、興味深いので、つい、こういして筆を走らせてしまう。

独り立ちした人類に語りかける神?

 話が逸れた。宗教の発生と食の関係である。つまり、ぼくの意見はこうである。たしかに、人類が肉食に特化することで隆盛したという説は説得である。そして、そこに「動物犠牲の祭儀宗教」を重ねてみるのは、魅力的な思いつきだ。しかし、宗教の発生は、それ以前の可能性はないのだろうか。

 人類の記号抽象化能力は、群を抜いて、他のあらゆる動物よりも優れている。普通に考えれば、大脳の発達、獲得の直後には、すでに、この能力を得ていたのではないか。

 そうなると、宗教の発生は森を出てすぐの頃、肉食に特化する前の雑食の頃ではなかったか、と思うのだ。人類の祖先の揺籃たる森から追い出されて、原野を歩き始めた人類の不安と神からの語りかけは同期していたのではないか。独り立ちを始めたの人類は幻視したもの、しかし、それは幻視ではなく人類の父であった可能性はないだろうか。となると、採食から肉食へと人類が移行したという創世記の記述には先見の明があったのかもしれない。とまれ、この見方は身内びいきだろうか。

 以上、「肉食と同時に動物犠牲の祭儀宗教が登場したのでは?」という自分の思いつきに対する雑な反芻をここに置く。明日は何を食べようか。

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