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聖書を聖書によって読むこと

 「ユダヤ教の聖書の読み方ーー詩篇とヨブの祈りーー」という、約4万字に及ぶ論考がある。出版は11月。幸いにも先日、この論考を事前に読む機会を得た。というか、編集者に渡す前の段階で校正した。執筆者は、ユダヤ文献学・ヘブライ思想の専門家・手島勲矢。ヘブライ大学、ハーバード大学を経由したユダヤ文献学の碩学である。ぼくにとっては3人目のヘブライ語の恩師だ。

 この手島先生の論考が素晴らしかった。具体的な内容については、論考の出版に譲りたい。しかし、あまりにも素晴らしかったので、ご本人の許可を得て、ここに要約と感想の入り混じったものを書いておく。なお、論旨をクリアにするため、表現が大げさになっている。また敬称は省略し、あくまで私的な要約と感想として書いた。このあたり、差し引いての一読を願う。なお以下は全文無料公開ながら、まあまあの知的努力と時間を費やした文章なので、ぜひ一読を願いたい。(数名の方より十分なご厚意を受けましたので、無料公開と変更いたします。有難うございます。励みになります。)

キリスト教とユダヤ教は「旧約聖書」を共有していない

 まず議論の大前提は、「キリスト教とユダヤ教が旧約聖書を共有していない」ことだ。「何をいうか…?!旧約聖書とは、ギリシア語の新約聖書と並ぶ、キリスト教の原典ではないかッッ?」と思う人もあるだろう。しかし、実際には別物だ。

 まず、ユダヤ教において「聖書」は、「タナッハ」と呼ばれている。このタナッハは「律法・預言者・諸書」という三部に分けられ、合計24冊の書物を含む。最上の権威である「律法」の下に、「預言者」が来て、次に「諸書」が来る。当然、ギリシア語で含まれた新約聖書は含まれない。

 ちなみに「タナッハ」とは、ヘブライ語における「律法・預言者・諸書」の頭文字をとって、つなげた略称だ。つまりタナッハは、文字通り、揺るぐことのない聖典24冊であり、ユダヤ教の「聖書」である。

 では、キリスト教の「旧約聖書」とは何か。まず「旧約」という語は、当然のことながら「新約」という語に対応している。イエス・キリストによる「新しい契約」に対して「旧き契約」を意味している。いいかえれば、キリスト教がユダヤ教の「聖書」を取り込むために作られた概念が「旧約聖書」だ。

 この旧約聖書は、アレクサンドリアでヘブライ語からギリシア語に翻訳されたと伝承される。いわゆる「70人訳聖書(LXX)」の話だ。しかし、当時の翻訳プログラムは、「ユダヤ人の律法を翻訳する」ことが目的だった。従って、そのギリシア語訳には「預言者」も「諸書」も含まれていない。

 要するに、のちに「旧約聖書」と呼ばれたものは、このギリシア語訳「律法」に、さらに預言者や諸書、またはマカバイ記などの書物を加えた翻訳文書の一群なのだ。従って「旧約聖書」は、厳密な意味での「タナッハ」の翻訳とは言えない。丁寧にいえば、ヘブライ語「聖書=タナッハ」の翻訳を一部含むものが、ギリシア語「旧約聖書」といえるだろうか。

旧約聖書とタナッハの違い

 この二つの書物には、まず形式に大きな違いがある。たとえば、タナッハ24冊は巻物(scroll)であって、旧約聖書は冊子(codex)

 次に「書名の有無」が大きな違いである。

 一方で旧約聖書には書名が付されている。キリスト教が呼びならわす通り「創世記、出エジプト記…」と、時系列に並び替えられている。

 他方、タナッハは、「律法・預言者・諸書」というユダヤ教独特の「啓示の秩序」によって配列区分されている。タナッハには、創世記・出エジプト記...といった書名はついておらず、いきなり本文冒頭から始まる。各書簡の区別は、「パラシャー」という空白によって示されるのみだ。

 さらに、何よりも「文字」が違う。

 「タナッハ」はヘブライ語だから子音のみで表記されている。だから読者は、必ず母音を補完して読まなくてはならない。結果、どうしても、発音の伝統が複数あらわれてしまう。ユダヤ人は、これら音の記憶を、逐一書き残すシステムを開発した。(いわゆるマソラ写本の伝統)

 対して、旧約聖書が書かれたギリシア語は、ヘブライ語のように子音のみで表記はしない。最初から音が補完されている。すなわち、ギリシア語に翻訳した時点で、本来あったはずの複数の「発音」伝統は隠されてしまう。したがって読者は、否応なく誰かが一つを選んだ「解釈」を読むことになる。

 タナッハ24冊は、ユダヤ教の「聖典」である。それは、律法と預言者と諸書の24冊を含む、複数の読みの伝統を保存した、ヘブライ語の子音表記の巻物なのだ。一方、旧約聖書は、タナッハの厳密な意味の翻訳ではない。それは旧約と新約の間「中間時代」の記憶など様々な記録と伝承を含んでいる。旧約聖書は、ギリシア語の「正典」である。つまり、「旧約聖書」は歴史的に不変のものではなかった。「正典」として定められる必要があり、定められるがゆえに、第二正典、偽典、外典といった「正典性」という神学的課題を当初から含んでいた。

 これは余談であるが、手島が指摘した、このキリスト教における「聖典」の解釈、「正典性」の問題こそが、マルキオンやある時期の米国の新約バプテストのように「旧約聖書」自体を軽んじる、無効とする、または古典的ディスペンセーショナリズムや改革派・再建主義のように「旧約聖書」に奇怪な解釈を施す、といった神学の歴史的起源である。「翻訳宗教」であるキリスト教が持つ多様性の理論的必然としてのプロテスタンティズムとその後のプロテスタント「的」なるもの(福音派/聖霊派など)の歴史的展開の揺籃は、実に、この「正典性」の問題にあったと言ってよい。無論、言うまでもなく、この問題は、古代教父における「置換神学」の問題と接続することになる。話を戻す。

 手島によれば、旧約聖書とタナッハは、物体としても書物としても、そもそも違う。

 これが「キリスト教とユダヤ教が旧約聖書を共有していない」という指摘の意味である。しかし、ユダヤ教もキリスト教も「聖書」を掲げる宗教である。では、この違いが、具体的にどのように表れるのか。両者において、「聖書を聖書によって読む」という言葉の意味は、どれくらい変わってしまうのか。

「タナッハ」における啓示の秩序

 たとえば、イエスは「律法と預言者を成就するために」と語った。しかし「福音書」と「使徒行伝」の著者と云われる、使徒ルカは「律法と預言者と詩篇に」と語る。アラム語話者ヘブライ人のイエスの意識は「律法と預言者」に向けられており、ギリシア人のルカは「律法と預言者と詩篇」と伝えた。

 この「律法と預言者と詩篇」は、キリスト教神学の枠内では、伝統的に「旧約聖書の全体」を意味すると考えられてきた。キリストの到来を示すと解釈された「詩篇」は諸書を代表する書簡ともいえる。

 しかし、イエスは「律法と預言者」としか言っていない。ルカは「詩篇(諸書)」を追加した。「聖書を聖書によって読む」とき、これは何を意味するのか。

 イエスにとって「聖書」とは言うまでもなく、「タナッハ」を意味した。従って、イエスは「聖書=タナッハ」における啓示の秩序を理解した人物だった。啓示の秩序とは、いいかえれば、タナッハ内部における権威の序列である。

 「律法」は、モーセが神と顔を合わせて語った内容だから、最重要にして最高の権威をもっている。それゆえ、ユダヤ教徒は毎週会堂でそれを朗読しなくてはならないし、事実、暗記させられる。

 その後に書かれたとされる「預言者」は、モーセに与えらえた啓示契約に沿って、解釈されるべき預言者たちが預かった「神の言葉」を担保する。それゆえ次点の権威がある。しかし、これは会堂ですべてを読まなくても良い。事実、会堂では律法と合わせて読むための「預言書」引用文集が存在している。

 さらに「預言書」の完結する時代に書かれ始めた「諸書」は、書かれた「預言者」のことばを記述し、解釈したという意味で、神のことばの権威を持った。いいかえれば「預言書」の時代の終わりには、「神のことば」は解釈を要求されるようになった。

 こうして、中間時代(旧約と新約のあいだ)には「預言の終焉」が明確に意識されるようになる。手島によれば、それは「殉教の意識」に現れている。「殉教の意識」とは、「律法と預言書」時代の終焉にともない、神による超自然的な介入が停止したことの自覚、それゆえに、自らの信仰と解釈に命をかける覚悟である。いいかえれば、預言の終焉と「諸書」文書化の時代においては、すでに「聖書」の解釈が問題となっていた。

 これらの手島の指摘を踏まえて、ぼくなりの素人見解を述べると、A.シュヴァイツァーが指摘した「イエスの終末意識」の実態は、まさしく、このような「殉教の意識」に根差したものではないのか。当然、この「殉教の意識」はクムランの人々やヨハネ黙示録の著者にも継承されていると思われる。つまり、律法があり、次に預言者があって、諸書の後に、メシアの出来事が来る。この啓示の秩序こそ、イエスや使徒たち、パウロの解釈であったのだろう。

 ルカが「詩篇」を加えたのも、この線で理解されるべきである。しかし、後代の教会は、そう考えなかった。たとえば、アウグスティヌスが活躍するような時代には「旧約聖書は新約聖書によって解釈され、新約聖書は旧約聖書によってより明らかとなる」といった解釈の循環がすでに成立していた。いわゆる「予型論」解釈である。

 つまり、手島の指摘は「聖書解釈:聖書を聖書によって読む」ことにおいて、かなりクリティカルな批判となるのだ。予型論において「旧約聖書」は、キリスト教のために作られた新たな「聖書」概念であった。その概念は、タナッハの持つ啓示の秩序を無効化し、新約聖書の証言を補強するために用いられた。いわば「旧約聖書」は、キリスト教が自分たちの新たな「啓示」の優位性を主張するために設えられた人造「聖書」であった。

 話を戻す。では、タナッハと旧約聖書の違いを踏まえた上で「聖書を聖書によって読む」ことは、どのようになるのか。

「聖書を聖書によって読む」とはいかなる意味か

 ここでようやく本題の問うところが明らかになってくる。「ユダヤ教の聖書の読み方ーー詩篇とヨブの祈りーー」、手島によれば、タナッハにおける「祈りの伝統」を見るとき、「聖書を聖書によって読む」ことが明らかになる。

 委細は本文に譲るが、手島によれば「律法」における預言者の祈りは、「アブラハムの祈り」に象徴されている。まず、一般的にセム語においては「祈る」という動詞の語根は、「神に犠牲をささげて願いを立てる」という意味になるが、ヘブライ語においては、特有の用例がある。それは「仲裁する」という意味と用例である。つまり、神と人の間にたって、仲裁するということだ。

 たとえば、アブラハムが自身の配偶者サラを妻ではなく妹と偽る場面がある。王アビメレクに殺され、妻も命も奪われることを恐れたアブラハムは、サラを妹だと伝えた結果、王アビメレクはサラを嫁にするために連れ去ってしまう。そして、その夜、神は王アビメレクに現れて語る、妻を寝取る罪によっておまえは死ぬ、と。王アビメレクは、自らが騙されたこと、かつ未だサラに触れていないことを訴える。神は、それならばと王アビメレクに、アブラハムに祈ってもらえば助かる、という。

 つまり、ここに「仲裁する」というヘブライ語における動詞「祈る」の語根の特有な用法が現れている。無実の罪で罰を負う者のためにこそ、預言者は立つ。彼は神と人の間に立って、場を収めるのだ。

 ところがタナッハの第二区分の時代、「預言者」のころには、この祈りの伝統に変化が現れる。強大なイスラエル王国を率いたダビデを導いた預言者サムエル、彼の母ハンナである。手島によれば、ハンナの祈りは、タナッハの祈りの伝統に新たな次元を加えた。

 母ハンナの祈りは「子がほしい」だった。不妊の女性の、あまりにも切実な、そして個人的な願い。しかし、神は、その祈りを聞いた。手島は、これを「祈りの民主化・解放」と表現している。言い得て妙である。

 ではタナッハの第三区分「諸書」の時代、「預言の終焉」の頃にはどうか。手島によれば、祈りは「告白と託宣」の形式になっている。後期の預言者エレミヤにおいては、激情型の彼の思いは、ときに神と重なっている。つまり人称が混濁していくのだ。

 さらに「詩篇」の時代においては、「告白と託宣」が何層にも折り重なっていく。結果、主語は特定できても、話者を特定できない事態が「聖書」の中で起きてしまう。手島はそれを「祈りのモノローグ化」として表現している。

 律法、預言者、諸書。無辜の他者の赦しのために、神と人の間にたって仲裁する祈りから、祈りの民主化と解放へ。しかし、民主化の後にやって来るのは人称が混濁し、罪人の告白と神の託宣の区別ができなくなるような、祈りのモノローグの時代なのだ。

 しかし手島は、続けて「ヨブの祈り」に目を向ける。ヨブは「苦難の文学」の世界的古典である。常識的ではあるが、「ヨブ記」は、古今東西に類を見ない義人ヨブの信仰を、悪魔が神に試すように挑むところから始まる物語である。ヨブは、資産も家族も健康も奪われてなお神を信じる。しかし、ヨブの友人らは、ヨブの側の責任を問い、喚く。たまらずヨブは、神に自ら申し立てたいと口を滑らせてしまう。すると神は現れて、ヨブを叱責し、ヨブは平伏し沈黙してしまう。神は、ヨブの三人の友人の不実を責め、ヨブに祈ってもらうならば許されると語る。

 ここで起きたことは「祈りのバグ」である。「祈りのバグ」という語は、批評家・黒嵜想からもらった表現だ。手島の論考があまりにも良かったので、黒嵜に話したところ、この表現が出てきた。

 そう、ヨブは「祈りのバグ」に直面したのだ。「殉教の意識」の時代に語り伝えられた「ヨブ記」は、モーセの筆によるという伝承もある。アブラハムやモーセの「律法」の時代の預言者と同じく、ヨブにとって、祈りは「無辜の他者を救うため」であった。しかし、ヨブの前に現れたのは、ヨブを罵り、神からも悪と罪の判定を受けた者であり、自己の救済しか考えることのできない人々であった。

 本来の状況、正当な手段には想定されていない「バグ」の登場。「ヨブ記」には、ヨブの困惑や逡巡は残されていない。ただ結果のみが記されている。ヨブは彼らのために祈り、彼らは救われ、ヨブ自身もまた失ったものを回復した。

 手島は論考の最後において、ヨブが異邦人であることに注目する。契約の民(古代イスラエル民族)に与えられた「タナッハ」における祈りの伝統は「預言者の祈り」から始まり、民主化と解放を経て、モノローグと化した。しかし同時に、異邦人ヨブの祈りが「諸書」に含まれている。

 神との契約外にある異邦の民、しかし、義人として認められたヨブの祈りは、罪ある者のために、祈りの労苦を引き受けて、神と人を仲裁する祈りだった。手島は、この「ヨブの開かれた祈り」にこそ、「タナッハ」が古代イスラエル、ユダヤ教のローカルな聖典にとどまらず、人類の聖典を占めるに足ると結論する。然り、その通り、アーメン。

 手島の論考は「旧約聖書」と混同され続けてきた「タナッハ」を、その軛から解放し、タナッハがもつ本来的な普遍性を示している。聖書を聖書によって読むからこそ、見えてくるものがある。タナッハの持つ啓示の秩序、その内在的な歴史構造が持つ「祈り」の展開は、たしかに人類へと開かれている。

「タナッハ」における祈りの伝統が照らすもの

 翻って考える。キリスト教の祈りはどうだろう。事実として、キリスト教の祈りの多くが、個々人の欲望を満たす現世利益を求めるものとなっている。手島が示したような「開かれた祈り」が、本当にいまの「キリスト教」に存在しているのだろうか。

 同時に考える。手島の論考が必然的に導き出す批判である。たとえば「ヨブ記の祈り」と題して、このテーマを扱うこともできたはずだ。しかし、そうした途端、この話題は、キリスト教の「旧約聖書学」に回収される。またはユダヤ文献学として扱うときには、上掲のような「キリスト教」との対比は見えてこない。執拗に「タナッハ」に拘らなくては、「タナッハの祈りの伝統の展開」を知ることはできないのだ。

 つまり、手島の論考は、旧約聖書学に対してもユダヤ文献学に対しても、方法論的な批判となっている。いいかえれば、近代聖書学における断片化と哲学化に対する文献学的批判である。フィロソフィアの前提としてのフィロロギアへの情熱が、手島の動機となっている。

 さらに言えば、手島の論考は、京都大学キリスト教学の学統(波多野精一、有賀鉄太郎ら)における「ハヤ・オントロギア」のユダヤ文献学からの言い換えとも見える。「ハヤ・オントロギア」とは、ヘブライ思想とギリシア思想が衝突・対流した、ユダヤ・キリスト教の歴史的核の動態である。

 加えていえば、手島の論考は「アブラハムの宗教」の交わるところ、その歴史的動態を適切に表現する手がかりともなっている。ヘブライ語の固有性に基づいた文字の宗教としてのユダヤ教、アラビア語の固有性に基づいた声の宗教としてのイスラム教。このような比較は可能である。しかし、手島の論考を踏まえれば、ユダヤ教に保存された文字と音の伝統に注目することができる。すなわち、アブラハムの宗教を「文字と音の伝統」の観点から俯瞰・分析する視点を得るのだ。

 無論、これだけで「アブラハムの宗教」という動態を描くことは叶わない。おそらく千年ほど前には、これら三宗教は、その独自性を明確に確立したのだ。しかし、まさに二千年前の「イエス・キリスト」という出来事によって「歴史」が二分されるのだとしたら、まさしく「歴史」の核において、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が交わるところの動態が、手島の論考を手掛かりに見えてくるのだ。

 なお、言うまでもないが、イスラム教が、ユダヤ・キリスト教の伝承と土着の宗教性を摂取して成立していることは疑えないように思う。したがって、二千年前に「未然の宗教」として、ぼくはイスラム教をここに置いている。

 いいかえれば、ヘブライ語の固有性に基づくユダヤ教とアラビア語の固有性に基づくイスラム教に挟まれた「翻訳宗教としてのキリスト教」が、いかなる錯誤をもってユダヤ教から分離し、世界宗教となり得たのか、その生成過程を解明する一つの手がかりが、手島の論考だと言えよう。

結語

 さて、4万字の論考の要約と感想のために数千字も書いてしまうと読者を得られない。もろもろ取りこぼしはあるが、委細は、手島勲矢「ユダヤ教の聖書の読み方ーー詩篇とヨブの祈りーー」の出版を待って頂きたい。

 以上、「聖書を聖書によって読む」ことについて、最近で、もっとも楽しかった話をここに記す。正直、聖書を読んできた者としては、もう成仏できそうなくらいには愉快で刺激的な話だった。アブラハムの宗教の同一性と差異の問題について、新たな一歩が踏み出されたからだ。
 
 さらに言えば、ぼくは「日本の「国体」の解放の神学」を起動することを目論んでいる。そのプログラムは、アブラハムの宗教に関するローカリティの指摘であり、文書啓示と言語偏重への批判でもある。しかし、ここまで確かな学問的成果にいかにして立ち向かうべきか。大きな課題となった。わくわくが止まらない。

 可能な限り、簡単に書いたが、多くの「聖書」読者の皆さんに、または「アブラハムの宗教」に関心を持つ一般の方々には、ぜひ手島先生の論考を読んで頂きたい。長文を読んでくださって感謝します。

波勢邦生 拝

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