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垂直と水平ーー「丸木舟とUFO」感想

垂直と水平ーーそれが映画「丸木舟とUFO」を観た感想だった。

 船底から見上げる人々の顔は、くり貫きの木造船となったリュウキュウマツが獲得した新たな視線だ。亜熱帯の森に屹立し続けた大木が他の樹木とヒトのために身を横たえて余生を過ごす。森から海へ。立つことから横になることへ。

 その姿は、公民館ちかくでUFOを探すために身を横たえる久宇良の人々の姿にも重なる。他者のために、この土地のために身を横たえて星空を眺める。

 そんな日常を青く俯瞰する視点が時折挿入される。人には叶わない空撮の視線。中空に飛び立つことを許された、人ならざるものの目線が静かに流れていく。その目線の主はUFOなのか先人の思いなのか。答えはつまびらかにされることなく、今日も集落の命を守る水が滾々と地平を穿って湧いてくる。地下から地表へ。山間から人里へと流れていく。

 作中の画面は、主人公となる吉田さん一家を中心に久宇良の面々を波紋のように映し出す。人の想いの波が寄せては返して、久宇良という時の流れを描き出す。人ならざるものらの視点、人々の目線。垂直と水平。

 作品を見ながら迷ってしまう。これはノスタルジックな過去の日本の話なのか。または少子化の果てにある半世紀あと、百年先の日本の未来の映像なのか。否、描かれる垂直と水平は、紛うことなき現代日本の話なのだ。バブル世代の夫婦の長男はコロナ不況の煽りを受ける。しかし、この精悍な青年ならば、どんな世界が来ても生きていけるだろうと思ってしまう。

 吉田一家と久宇良。久宇良と石垣の市街地。離島と本島。琉球弧と本土。日本と太平洋弧。太平洋と地球、そして太陽系、銀河、宇宙…。ひとりぼっちの滴の波紋が弧を描き、自力海上交通という自由を復活させた人々の暮らしは、新たな世界の水平線を見せてくれる。垂直のまなざしは、それらを空から、あるいは身を横たえて包むように、じっと見つめて寄り添っている。

 「日本」「普通」という語彙の幅を教えてくれる吉田家と久宇良の人々の暮らしは、それでも社会の一部である。事実、地方自治体より吉田さんに、リュウキュウマツの有効活用の話が来る。これが彼にとっては船大工として一皮むける契機となる。

 そう遠くない未来、日本全国で、本作と同じような限界集落が見られるのかもしれない。しかし半世紀先を見て、舟を削りだし、UFOを探し出して街を興そうとする人々がいる。

 そして気付く。これは沖縄本島からの移民の物語、その継承と行方を扱う物語である。そう、日本とは元来、北と東の大陸からの、南方の海上からの移民の国ではなかったか。ユーラシア大陸の果て、シルクロードの最果てに辿りつく人と物、それらが漂着する一万四千有余の島々こそ、日本ではなかったか。その日本の海岸線の向こうには、地球最大の空間、太平洋が広がっている。

 本作「丸木舟とUFO」は、この意味において、古くて新しい日本人論ともいえる。過去/現在/未来という、安直で直線的な歴史ではなく、複雑怪奇な生態系を構成する垂直と水平こそ、この国のかたちではなかったか。そんな問いかけが胸に残る。

 大阪十三の劇場を後にして京都に戻ると雪が降りはじめた。どうしても映画の話をしたくて友人を呼び出して河原町三条の回転寿司屋に座る。戻り始めた外国人観光客の声が聞こえる。フランス語、英語、韓国語。石垣産の貝が流れてきた。ふと吉田さんと久宇良の人々を思った。

 思い出していると取り損ねてしまった。海流や輪廻に流されるように寿司皿は回っていってしまった。食べ損ねたし、石垣島まで行けば、おいしい貝を食べて、丸木舟に乗り、UFOを見られるかもしれない。ふと、そんな考えも通り過ぎていく。次に取れそうな休暇はいつだっけ。そう思うと何だか楽しくなってきて、まずは石垣産の貝の皿を取るべく、待ち構えることにした。

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公式サイトフライヤーより引用

ぜひ劇場でご覧になってください。大変よい映画でした。またパンフレットは必ず買うべきです。この作品がギュッと詰められています。鑑賞後の余韻に浸りながら読むのに最適な小冊子です。観てよし!買ってよし!でした。

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