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即断即決のワナ

 不惑を過ぎて、随分と自分が「即物的になった」と感じている。たとえば自分が見聞きしてきた神学や信仰に関して、すでに粗方は分析とパターン化と納得が済んでいる。だから新しいと云われるもの、または騒がれるようなものに対して、何も感じなくなった。

 よくいえば成熟であり悪くいえば感性の磨滅。人間はこうして老人になっていくのか…と、ひとり納得している。

 最近もネットで流れてきた記事を見かけて即断即決してしまった。「宗教」「神」「救い」「神学」など、これら厳つい用語を使いながら、著者は何一つそれらに没入した経験がないだろう記事をみて、控えめに言っても「死ねばいいのに」と思った。

 別に一般人の井戸端会議、床屋政談にイチャモンをつける気はない。ぼくの怒呆の対象はアカデミシャンである。少なくとも学者を名乗り、アカデミックを名乗る人々だ。

 たとえば、ジャングルへの探検について誰でも語ることはできる。しかし「探検」という経験それ自体の本質を語ることは不可能だ。なぜなら経験していないからだ。女性の出産の痛みに男が介入できないのと同様である。

 それゆえ、宗教、神、救い、神学についてM卒以上が語る場合、やはり、そこにはある程度の経験が必要となる。なぜなら、これらの研究対象それ自体が研究者に、ある程度までの経験を「要請する」からだ。

 もちろん入信せずとも宗教学徒には成れる。それが学問の学問たる所以である。しかし学びの過程には「入信」について精緻な観察、また十全なる深度をもった、ほとんど参与観察に近い経験が前提されている。カツ丼を食ったことのない者にカツ丼の味が分からないのと同じだ。

 「宗教」「神」「救い」「神学」などを研究対象として扱うには、どうしても、これらのことに実存を割かねばならない。または裂かれた経験が必要となる。

 いいかえよう。信仰なき神学は可能か、宗教なき宗教哲学は可能か。なかなか難しい問題である。

 信仰なき神学については、ひとり実例を知っている。尊敬する先輩の一人であり、その方は信仰なしに神学博士となられた。学び尽くした上で、なお自分はキリスト教徒ではない、との態度には敬服せざるを得ない。

 では宗教経験なき宗教哲学はあり得るか。これについては訝しむ。なぜなら宗教哲学は「宗教」という、かなり煩瑣で複雑な事象を抽象化して論じる分野であり、その前提には各宗教・宗祖なりの固有の経験があるからだ。

 果たして経験なき者が経験に基づく語りを論じられるだろうか。たとえば離婚の経験がなければ、離婚訴訟の弁護士になれないわけではないように、宗教の経験がなくても語り得るし、実務に携われるだろう。

 しかし「宗教」は普遍性を持ちながらも普遍的でない経験である。それゆえ抽象的に学究する以上は、抽象性が依拠する具体性が必要となるのだ。したがって、宗教の経験なき宗教哲学などあり得ない。あるとしても、それは論じるどころか一瞥にも値しない。ましてや、そのような経験なしに研究者として宗教哲学を語るのは文字通り「騙り」にほかならない。それは研究ではなく粗悪でつまらない冗談である。あくまで個人的意見だ。

 と、まあ即断即決してしまうのだ。ここまで書くと、いよいよ老害感が極まってきた。

 しかしモーセの十戒を暗唱さえしていない者が専門家然として、それを引用するのは愚かに過ぎるし、仏陀の教えに学んだこともないのにワケ知り顔で喚くのも恥知らずといえる。

 これについて異論は認めない。言うまでもなく、この頑固さが老化の証であり、罠であろう。

 とまれ読者諸氏には、そのようなネット上の有象無象にはご注意願いたい。そして即断即決にはワナがあることも忘れずに。自戒をこめて衷心より申し上げる。

【追補1】
友人より「特定宗教が力を持たない時代に宗教哲学は可能か、という側面もある」との指摘を得た。持つべきは友である。伏して感謝申し上げる。

※全文無料ながら御支援よろしくお願いいたします🙏

【追補2】
さらに別の友人より有益なコメントを得た。以下、要約して掲載。

 信仰なき神学、宗教なき宗教哲学はあり得るか。自分としては「ありうる」と答えたい。その理由は"学問性"です。歴史学、思想、社会学など手続きに則って探究が行われるのであれば、そこで信仰は問われない。学問として宗教哲学•神学をやるときの前提です。

 そういったアカデミックな世界でのやり取りが、結局「"宗教哲学"学や"神学"学であって、批判の源泉を他者から借りているだけ、薄っぺらい」という批判もよくわかります。

 ハセさんもご存知のように、波多野誠一は国立大学でキリスト教を扱えるように、学問性を重んじるキリスト教学の伝統を作った人です。彼なら、例の問いについては"あり得ない"と答えると思います。

"宗教哲学は宗教的体験の理論的回顧
 それの反省的自己理解でなければならぬ"

 宗教哲学の定義には、回顧•反省の素材となる"体験"が強く前提されています。ちなみにドイツの神学部では博士に入るときは教会の所属を求められます。

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