他人の眼のなかの塵
先日、不幸を招く青ざめた鳥のSNSで、随分と適当な発言をみて閉口してしまった。当然、キリスト教については何もしらない人の発言だから目くじらを立てることが可笑しい。とはいえ、やはり反応してしまう。上掲イエスの言葉を思い出し、心に反省が去来した。
陰謀論やスピ系、または床屋居酒屋井戸端で、ひとは語る。「本当のイエスは~だった」と。この手の発言は基本的に失禁と同様であり、要介護でないかぎり自分で始末をつけてもらわねばならない。「イエスは宗教に利用された」「聖書の~は、要するに~という意味だ」と、体内濾過物をまき散らすスピ系は後を絶たない。
しかしながら、どうしても言いたくなることがある。そもそも「宗教」という語が、いつからあるか知っているのか。いま、うろ覚えで引用した「聖書」を、誰が伝承し研究し校訂し翻訳し出版したか、あなたは知っているのか。
実証研究のかたわら、スピ系の人々の話を聞くことが多くなった。その中で、どうしても受け入れられない点は、このあたりである。スピ系の人々はみな「自分≒人間を大切にする」ことがテーマのように見える。違和感しか存在しない。
何ひとつ根拠も公共性もない事柄で、その崩れて凹んだ自画像、満たされない承認欲求をふりまわしながら、彼らは寄り添っている。不倫の言い訳にツインレイだの、前世だのを持ち出してくる。しかし、そこにあるのは、ただただ弱く傷ついた脆い主体しかない。近代的主体になり得なかった未然の人格者がそこにある。
未然の人格者であるがゆえに未熟である。しかし、それは免責事項にはならない。彼らには、自分が軽々しく批判した事柄にまつわる重たい事実、人間の歴史についての顧慮はない。そこにあるのは、自己都合のみであって、自他と社会を大切にすることとしての人間を大切にすることは存在しない。
歴史のイエスは、たしかに存在し、何かを語った。その生涯と言動は弟子たち、証言者たち、目撃者らによって口伝として保存された。その中から、主要な複数の伝承が文書化された。それらは宛先において読み上げられ、写本が作られ、回覧されて朗読された。
その口伝≒文書の循環は、やがて共同体の紐帯となり、言語を超えるようになった。写本は解釈されて翻訳された。その翻訳写本は再び回覧され朗読されて翻訳されて、世代と国境を越えて継承された。
こうして歴史のイエスは、信仰のキリストとなり、そのイエス・キリストの聖なる伝統と聖書と呼ばれる写本群の解釈を保存する集合人格、それが教会と呼ばれた。
時代は下り、神の言葉である聖書でさえ古文書として再解釈するべきだという誠実な態度が、教会文化圏から生まれた。結果、現代の文献学、解釈学が生まれた。この学的献身は、ユダヤ教タナハの伝統とも合流し、現代の文献学の極致へと向かう。そう、ここに至るまでに有名無名の多くの学者・研究者らが有限な生をささげて、聖書や宗教と向き合ってきた。
これらは仏教であれ他の宗教であれ、同様である。あらゆる古典が読めることの前提には、その前提をつくった誰かが存在している。その無数の誰かの献身と研鑽を知ることなしに、無知蒙昧にして軽佻浮薄に過ぎる雑な批判を騙るスピ系については、断罪断頭すべきである。人間=自分を大切にすることにしか興味がなく、真・善・美を騙るスピ系と、イエスや宗教が教えてきた人間を大切にすることの間には、ブラックホールの向こう側とこちら側ほどの断絶がある。その塵にまみれて濁った両目を潰すか、くり抜いてさしあげたい。
刹那、聖書と聖伝がひびく。
あぁ、そうだ。たしかに。アーメン。
あらためて考える。とくに誰かの眼の塵を取りたいわけではないのだ。まずは自分の眼の梁を外す工事から始めなくてはならない。そもそも雑なのは、こちらも同じであるから、他人さまの眼の塵を取ろうとして首ごと取るようなことがあってはならない。
ということで、いよいよ佳境のさなかにある博論執筆に戻らなくてはならない。以上、息抜きである。
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