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世界に飛散する自己

初めて培養細胞を目にした時、突如襲った違和感の物語である。

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「自分とはなんなのか。」

誰もが一度はぶち当たったことのある疑問であろう。
このような結論に行き着くのではないだろうか。

「人間個体は共同社会との交わりにおいて完成される」

例えばあなたが今使っている言葉はどうやって習得したのだろう。
最初の単語は母親から教わっただろうか。のちに小学校に入学し、「俺」あるいは「私」なんていう呼称を周りに習って身に付けただろうか。そして高校に入学し、卒業して世界を分類するための言い回しを身に付けてきただろう。
今、あなたが自分の意見を表明するとき、その言葉は、言い回しは、あるいはその価値観そのものも過去の誰かの影響抜きでは語ることはできないだろう。
「人を殺すことは悪いことだ。」なんで?「だってそう教えられたから。」
こうした意味で、自己と他者の境界は極めて曖昧であり、明確な線引きをすることはできない。自己は世界に延長されている。

もう一つ、「免疫」という立場から自他の境界について考察する議論もよく目にするのではないだろうか。免疫とはなにかというと、ウイルスを咳で吹き飛ばす様子をイメージすればわかりよい。自己に侵食してくる「他」を排除する働きである。
近年、医学における研究対象として「腸内細菌叢」というものが注目されている。「叢」は「くさむら」とも読み、読んでそのまま、人間の腸の内部にはたくさんの細菌が住み着いており、「叢」のように蔓延っていることを表した単語である。
どうだろう。細菌が腸内に住み着いている。気持ちがわるい。当然人間は熱、あるいは嘔吐・下痢といった免疫システムを使って必死に体内から排除すると思うだろうか。
実は人体はこれらの細菌に対して攻撃を仕掛けず、その存在を許しているのだ。許しているどころではない。ある細菌は人間の健康のために必要不可欠な物質を産生しており、その細菌がいなければ人間は病気になってしまう。「共生」と呼ばれる状態であるが、つまり細菌と人間、運命共同体なのである。
このとき、細菌が人間の一部であると考えることはできないだろうか。人間に必要不可欠な物質を産生する「器官」。肝臓が人間に必要な物質を合成するのと全く同じように、細菌も「臓器」として働いている。
こういった意味で、「自己」と「他」の境界は曖昧であると言える。

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ここまでが「自己」について先人たちが繰り広げてきた議論である。

さて、私を襲った違和感の方に話を戻したい。私が今の大学に入り、初めて研究室に赴いたときのことである。外国籍の研究室であった。

「これが培養がん細胞だよ」先輩研究員が桃色の液体の入ったシャーレを取り出してみせてくれる。何も見えない。
顕微鏡を覗く。小さいポツポツがひしめいている。ひしめいていると言ったら誤解を産むかもしれない。小さいポツポツは微動だにしない。
先輩が言う。
They look 元気!」

この瞬間である。私に電撃が走ったのは。
こいつらが元気!?生きてる!?しかもこれがヒト!?

しかし、それらの微動だにしない細胞たちは紛れもなく「生きている」のである。栄養を取り込んでいるし呼吸もしている。子孫を増やしたりもする。ヒトという個体から離れて尚、この細胞は生きている。

にわかには呑み込み難かった。

考えてみてほしい。あなたから肉のひとカケラをとってきて、適切な処理をして培養すると、紛れもなくあなたの一部だった細胞たちはシャーレの中で生命活動を育むことになる。この細胞はいつまであなたなのだろうか?あなたのったった一つのかけがえのない命から、何億何千万といった"生命"あるいは"個体"が生成した。"あなた"は今どこにいる?

私が人生一の衝撃に浸っているとはつゆ知らず、先輩からさらなる濁流が押し寄せる。

このがん細胞、HeLaと名乗りるこのがん細胞、1951年にある一人の女性患者から採取された細胞の末裔なのである。世界で最初に培養に成功したがん細胞で、世界中で使われている。

一人の女性から採取されたがんのカケラが、彼女が亡くなって何十年も経つ現在、今この瞬間も世界中で増殖している。生命活動を営んでいる。
この世界中に飛散し、総重量も想像できないほどに膨れ上がった細胞一つ一つが「彼女」そのものなのである。彼女の肉は今ヒト何人分?彼女の命はいま何個?

自分とは、なんだろう。

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わたるんぐる
院進の費用がなくて辛いです。