道徳の内側と外側 inner side and outer side of ethics
倫理学 ethics の中には、どのような規範に我々はしたがうべきなのかを検討する規範倫理学と呼ばれる分野がある。規範倫理学の中にも主要な立場が複数あるが、有名なのは義務論(カント主義)と功利主義 utilitarianism である。
功利主義はいわゆる最大多数の最大幸福を指標として行為すべきであることを原則とする。快楽や苦痛を感じる各主体を平等に取り扱い、快楽の最大化と苦痛の最小化をかなえるような行為が善い行為であり、選ぶべき行為だと結論する。ただし、行為を選択するたびに結果(帰結) consequence として増減するであろう関係者全員の快楽の量と苦痛の量を計算することは現実的ではないため、既存の道徳に類似した一定の一般的規則にしたがうことで実際に最大幸福や最小不幸を実現していこうという立場があり、功利主義のなかでも規則功利主義と呼ばれている。
一方、義務論は純粋な形態では哲学者カント Kant が提案し追求したものである。この立場では、責任ある主体、すなわち人間の行為は義務にかなうものであるべきだと考える。そして義務とは何かといえば自分で立てた規則(自己立法)の一種である。この規則には大袈裟な審査条件がついており、それは「その規則を全員が採用しても(=普遍化しても)問題ない」ということである。例えば、意図的に事実と異なることを言うこと、すなわちウソをつく行為について、「誰もがウソをつくべきである」ような社会は成り立たないが故に、なすべきでないと結論するのがその判定に当たる。こうした普遍化テストをパスした規則にしたがうのが義務にかなう行為であり、なすべき行為であるというのが義務論の立場である。
この二つの立場を背景として語られたのが、もはやインターネット民にとっては大喜利ネタとしか見られていない、フィリッパ・フットのトロッコ問題 trolley problem である。この思考実験は、結果として損なわれるであろう人命の数を根拠として、一名よりも五名の命を優先すべきだという功利主義の立場と、結果あるいは人数がどうであろうと、意図的に(=責任を持って)線路をスイッチして誰かを殺す行為に加担すべきでないという義務論の立場の対立を描いたものである。
さて、義務論は普遍化可能な規則にしたがえ!とは命じるものの、その根拠を示すことは無い。なぜならば、人を殺してはいけないという規則は、単に他人に殺されたくないから立法されるに過ぎず、他人に殺されても構わないという人にはそれは普遍化不能な規則だからである。すなわち、或る規則の是非を問うときに、個人の勝手な主観を超えたところに客観的もしくは経験的な根拠を持たないのだ。この点では義務論はすでに立法されて普及した道徳規則や法律を墨守させるように働く。つまり、みんなが守っているから君も守れ!というわけである。イメージとしてはあたかも規則の内側に我々を拘束し、規則の外側にある立法根拠を我々の目から覆い隠すかのようである。少なくともみんながその規則を守っている限り、規則の改定はできないことになってしまう。
一方、功利主義はどうか。ここでは規則功利主義を念頭におくが、そこでは規則に根拠が示されている。それは規則と根拠(最大多数の最大幸福)とが分離していて相互外在的だからである。我々は現行通用している規則に対して、それがどの程度根拠にかなったものであるかどうかを測定することが可能であるし、その結果として規則が根拠にふさわしくないとなれば、規則を修正したり交換したりできる。つまり、功利主義は規則の外側にいる。なぜならば、功利主義の原理が根拠として主であり、個別の規則は根拠によって左右され改廃されるものとして従であるからだ。
ここまでで、義務論は「内側」で功利主義は「外側」なのだというイメージを描いた。これは義務論が内面的また主観的であり、功利主義が外形的または客観的であるというイメージとも重なるものだ。
しかし、この内外のイメージは角度を変えると反転する。例えば「この世」と「あの世」という対立からみると、我々はこの世の内側にいる存在者である。そして、この世の内側だけを考慮しそこにだけ通用するのが功利主義である。なぜならば、この世は帰結 consequence の世界であり、経験の世界であるからだ。さらに、もし「あの世」の存在を認めないとすれば、なおのこと功利主義には外部が無くなってしまうだろう。そうなると、功利主義は「なぜ我々は幸福追求しなければならないのか?」という問いにますます原理的に応答不能となる(それはトリビアルなことで問題にならないと開き直ることはもちろんできるが)。他方、義務論はカントが推し進めたようなかたちでは、実はあの世(この世ではない外部、カント用語では善意志 good will)から与えられているであろう従うべき規則にたどりつくために、普遍化テストをこしらえて、少なくとも利己的な規則を排除するという立場なのだった。言い換えれば普遍化テストをパスするのは、あの世の規則に接近するための必要条件に過ぎず、十分条件ではない。ただ、道徳が完全に「この世」の力学(それは物理法則でも権力闘争でもよいが)に支配されてしまうのは、道徳の特徴づけとして決定的に不味いとカントは思ったのかもしれない。
あなたにはどちらが内側で、どちらが外側にみえるだろうか?
(2,222字、2023.12.09)
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