人間関係の多層性
他のことと同様、人間関係についても、ヒトは一貫性というものをあまり気にしないものだ。だから、もしあなたが一貫性にこだわりがあるとすれば、他人にそれを期待しすぎると情緒的に無用に疲れてしまうことにもなりかねない。
例えばその場にいない誰かについて、不平不満を述べている相手がいれば、「ああ、この相手はその人に不満があって、もしかしたら嫌いなのかもしれないな」と推測するかもしれない。
しかしその誰かがその場に現れると、その相手はその現れた人に愛想良く振る舞い出す。そういうことはあり得る。
こうした現象を観察すると、果たして相手はその人物を好きなのか?それとも嫌いなのか?と迷うかもしれない。私などは迷ってしまうし、なんなら「真意」を問いただしたい気持ちになる。
ひょっとしたら「真意」はあるのかもしれない。本当は二人の関係は友好的であるか敵対的であるかいずれかで、ただ、表面的にはときどきその反対のような顔をしているだけなのかもしれない。一方、「真意」に当たるものがそもそも無い可能性もある。実際、何を持って真意とするかの判定基準が決められないなら、それは無いものだと思ったほうがよいだろう。なぜならば、あると仮定すると肩透かしを食らってしまうからだ。
相手が誰かの不平不満を述べていたとしても、もしかするとそれは単にあなた相手に話題が無いから述べていただけなのかもしれないし、もしそうだとしたら本気にしてほしいわけでもないだろう。一方、あなたがそれを本気にしてはいけない理由もない。
さて、仮にそこから何人か人の出入りがあったとしても事態は何も変わらない。変わらないというのは、ただそのときそのときそこにいるメンバーに合わせたコトバが流通するということである。コトバが流通するなら、そこには必ず何らかの意味があるはずだとか、過去や将来とのつながりがあるはずだとか、社会的な文脈があるはずだというのはかなり強い仮定である。
そうした意味論的な仮定をすることはもちろん必要ではあるのだが、果たしてどれぐらいまで〝本気〟なのかは相手をコトバ以外の部分も含めてじっくりと観察しなければならない。コトバにおいて刹那的な人が行動においても刹那的とも限らない。逆もまた然りだ。コトバが綺麗で一貫したイズムを持っているようであっても、それはチグハグな行動を縫い合わせてハリボテを仕上げる役にしか立っていないかもしれない。
コトバの一貫性は仮にそれを目指そうとする人にとっても難しいことなのだから、ましてやそれを意識すらしていない他人に期待し過ぎない方が心の平安が保たれ、健康的になれるというものだ。
(1,084字、2023.09.22)