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シミュレーションを超えた何か

私たちが生きているこの世界はどこかの宇宙人がお遊びか何かでつくった宇宙シミュレーションに過ぎない、という説を聞いたことがある。仮にそうだとすると、どこかに「本物の宇宙」があって、この宇宙はそのイミテーション(模造品)だということになるだろう。しかし、この宇宙こそが宇宙人の基準で本物であろうとフェイクであろうと、我々人類にとっては唯一の宇宙であり、シミュレーションであるかないかを識別することに意味はない(意味を与えられない)と言えるだろう。なぜならば、我々は「本物の宇宙」の何たるかを知りようもないからである。アプローチの仕方はいろいろあるだろうが、素人考えとして、まずはそう思う。

我々の世界で作成し実行可能なコンピュータシミュレーションの中にも、単純化されているにしても、それぞれの要素は特徴や特徴の順序付け、そして構造を備えていて、環境や他の要素に対してどのような作用を及ぼすかが規定されている。

例えばライフゲームのような古典的なモデルがそうだろう。各細胞 cells はそれぞれ生または死という属性(特徴)を持ち、周辺の8細胞の現在の様子が作用(機能)して規則的に次の生死が決定する。とはいえ、我々の世界に対するライフゲームの「世界」があるかのように、何等かの上位の「世界」に対して我々の世界がシミュレーションモデルとしてあるかのように考えるのは、アナロジーとして何かわかったような気にもなるのだが、実際には意味不明である。なぜならば、ひとつはライフゲームの実行もまた我々の世界の電子回路の上で実装・実現されているのだから、そこで何か世界が分かれている(二重化されている)わけではないからであり、もうひとつはライフゲームは何かの様子を表現していると解釈はできるとしても、それが再現している何かはどこにも存在しないからである。あるいは仮に我々の預かり知らないところに存在するとしても、それならなおさら我々がそれを作成したわけでもなくコントロールしているわけでもないからである。

しかし、このように理屈で考えてみても、この世界が誰かの夢かもしれないとか、宇宙人のシミュレーションに過ぎないとかいう思想には一種の魅力があって、心理的に抗いがたいことも確かである。例えば、その魅力によって生まれるのは、「あの世」の存在を肯定する信仰かもしれないし、この世界は何らかの未知の勢力に操られているとする陰謀論かもしれないし、きらびやかなスターや能力主義エリートたち、政治家や権力者、金持ちが世の中を牛耳っていて、自分はそれに対して全く影響力を行使できないと絶望する宿命論かもしれない。

それだけではなく、自分が眺めている現実が自分が眺めている通りの現実でしかないというのは実に退屈なことであり、自分が眺めている現実にただ眺められた風景以上の意味や物語を付け加えたいと願うのが人情である。言い換えれば、今手元にある構造や、今手元で観測できる機能が「ただ」存在するというだけではどういうわけか満足できない。しかし、実際は私が満足しようとしまいと人間が満足しようとしまいと、「ただ」あるだけなのだ。今分布しているような構造や機能が「ただ」あって、「ただ」運動しているだけなのだ。

そのことをありのままに受け止めればそれで何の問題も起こらない。少なくとも哲学を考えずに済むだろう。信仰を考えずに済むだろう。気の迷いを持つことも無いだろう。しかし、どうしてか、「ただ」あることが人間にはできないようだ。次に「それはなぜか?」と考えるのも、これまた罠である。

(1,467字、2024.06.09)


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