二極思考 Bi-poler thinking
昔から両極端を考えてしまうクセがある。両極端は或る一つの軸の両極端であるから、どちらの極にも一長一短があるのは当然であろう。
「要はバランスだ」とばかりに中庸を取ろうとしても、一つの軸、つまり一次元ではどこが真ん中なのか決めようもない。例えば正規分布(ベルカーブ)のようなものを導入して二次元平面上の曲線とすれば、極値が定まり、最大値あるいは最小値の候補として解が得られる。だが、その二番目の評価軸、y軸がなかなか手に入らないから困ってしまう。
x軸上のどこが自分自身にとって居心地のいい場所なのだろうか? 自分が安定する位置、自分が自分自身でいられる位置、左右にせわしなく動かなくて済む位置をそこでは求めている。
評価軸であるy軸の候補、言い換えれば、参加するゲームや組織や価値観も無数にあるから、君がx軸上で今いる位置を一番「高く評価」してくれるy軸を選べばいいのだ──というのは至極もっともではあるが、「要はバランス」と同じぐらい当たり前過ぎる話である。
ただ、例えば目の前の相手が私をどのように評価するかということひとつをとっても、それは流動的なy軸なのであり、同じ人がいつも同じ分布で私や私の行為を評価してくれるわけではない。
昨日やってほめられたことを今日やったら、全く異なる理由で罰を受けるかもしれない。そういう不安に常に脅かされていると、極端から極端に思考が流れるようになる。左の極端はこの理由で非難されるが、右の極端はまた別の理由で非難されるかもしれない。真ん中らしきところはまた別の理由で非難されたりなぜそこに決めたのか問い詰められるかもしれない、と。
だがまあ、不安や空理空論を重ねていても仕方がない。実績や履歴を記録するなり確認するなりしてみよう。こういうときにこそ前例主義──何かと非難されるものが──が役に立つのだ。上司がひどく気まぐれで部下を振り回して何も感じない人物だとしても、なにがしかの傾向はあるかもしれない。それをどうにかつかんだり、あるいは話せる味方を増やして何をしたら評価があがり何をしたら下がるのか、歴史を知ることも重要である。
ところで、この社会は海外と比較して同調圧力 peer pressure が高いと聞いたことがある。実際、誰かが音頭を取って(つまり責任を持って指揮者となって)制度や組織や評価基準が変わるのではなく、隣の人に同調していくことによって、緩やかなドミノ倒しのように全体の色調が変わることがどうやら多いらしい。その結果、どこまで変わってしまうのか、逆の極端まで突っ走ってしまうのか、いつの間にか誰も得しない泥船に集団が変貌してしまうのか、それがみえないのが怖いところである。
対外的には「要はバランス」でいながらも、自分自身としてはどんな条件がそろったらその集団を見限るのか自分だけのy軸を持っておきたいものだ。
(1,181字、2023.09.25)