雑記_遅刻_気持ちの切替_20231102
今日(2023年11月2日)は実家に行く。なぜならば祖母の見舞いを依頼されたからだ。気が重たい。なぜならば実家で親と顔をあわせたくないからだ。私にとっては、実家に行くことは関心度も優先度も低い事柄だ。なぜならば、第一にそれが喫緊のわたしの生死にかかわらないし、第二に、関心度や優先度はたとえ自分で上げたほうが合理的だと考えてもあがらないものだからだ。
実家は遠い。それは実家が都会に位置していないからである。だから、移動だけで何時間もかかるし、鉄道も何回も乗り継がなくては成らない。なぜならば私は自分一人で安全に自動車を運転できないからである。
そして、鉄道に乗り遅れてしまった。昨晩起こった複数の事故も関係するが、とにかく士気がそがれた。もちろん、予定より遅刻することになる。連絡を入れた。
或る種の人は、失敗や不手際があっても情緒の動揺が少ないようだ。私だって何度も経験して誰にも本当に気にされない、いわゆる迷惑にならないタイプの失敗については、動揺しなくなってきた。これは経験を蓄積したことによって鈍感になったためかもしれない。
しかし相手に影響を与える失敗、自尊心に関わる失敗についてはそうではない。気恥ずかしい言い方をすれば、「傷つく」ということだ。この傷のイメージは鉱物の表面についたキズを連想させるかもしれないが、私の場合はかすり傷や打撲などを念頭におく。それらはいずれ治る。いずれ治ることは頭ではわかっているけれども、今痛くてたまらないというのも本当だ。
もしそこが静かにする必要がある場所なら、なるべくガマンもするが、そうでなければ、正座で脚がしびれても私はうめくし、私がうめいたってなんでもないだろう。むしろ正座で脚がしびれた程度で救急車を呼ばれても私も困る。
「外傷」はいずれ治るものだが、それが生じた直後はただ痛いのであって、別にカウンセリングを受けたいわけではない。ただ痛い時間がどれぐらいで終わるか。それは当然個人差がある。外傷の部分が治って、自分でかさぶたを剥がしたり患部をかきむしってしまうようなことが無くなって、はじめてメンタルケアが必要かどうかという段階に移れるものだろう(移りたければ、だが)。
しかし、世の中には心身の強い人、あるいは鍛え抜かれた人たちもいて、私のように何日も何ヶ月も「気持ちを切り替えられず」にいられるということが理解できないようだ。私自身も、もちろん数秒で気持ちを切り替えられるものならそうしたいが、残念ながら先天的にか後天的にかそれができない。できる範囲は経験と共に増えてはきたが、それでもできないときはできない。別に今更理解されなくてもいいが、理解されていないことをハッキリ示されるのは堪えるというのもある。或る意味では情緒の波をやり過ごしながら、自分自身を引き受けて生きていくしかない。
(1,169字、2023.11.02)
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