分断を防ぐために中庸を知り、中庸をつくる。そして新しい関係、新しい共同体、新しい仕組みを想像する
政治学者のフランシス・フクヤマがリベラリズム=「法の支配」の美徳を再確認するときも、文献学者の山下正男がアリストテレスの倫理学と政治学を解釈する時も、そこには両極端を回避して、思慮(フロネシス)を活用してちょうど良い割合を発見する「中庸」の美徳が必要なのだという結論を支持している。
人間の普遍的な価値について考えてみると、そこに「団結」あるいは「協力」を設置できる。なぜならば、人類のこれまでの歴史において、我々は「団結」や「協力」によって軍事的にも農業的にも工業的にも商業的にも文化的にも大きな成果を上げて来たからである。
それ以外の普遍的な価値については、例えばホッブズは人間は誰もが「暴力的な死」を回避したいと述べており、これもまた人間の普遍性である。そしてこの「暴力的な死」を回避するために、お互いに重要なこと(例えば信仰)については突き詰めて話し合って合意を求めないことについて合意することにしたのだという。なぜならば、もしこの合意しないことの合意に合意しないのならば、誰も得しない無制限の揉め事(例えば宗教戦争)に引きずり込まれることを我々は学んだからである。
とはいえ、真に重要なことについてはお互いに身を慎むと共に、相手が言論の自由にしたがって主張することには異文化ゆえの主張であっても、まずは冷静に中身を検討するのだとしても、そもそも同じテーブルにつこうという意志が無ければ団結することができない。そして団結することができなければ、外敵、あるいは外のもっと強大な力を持つ集団や災害、自然環境の猛威に対して対抗することができない。言い換えれば、「分断」あるいは両極化が極端に成っている場合にはもはや「我々」性そのものが損なわれてしまうのである。
それでは両極化が起きるのはどんなときなのか? 簡単に言えば、貧困層と富裕層とはお互いを理解することができない。これは空腹の人間と満腹の人間、病気を知らぬ健康な若者と何度も身体を壊した高齢者のようなもので、お互いの生まれも育ちも価値観もあまりにも違いすぎるからである。無論、このような極端な二者がいないことは考えにくいだろう。なぜならば、国家のような何千万人もいる大きな集団においては、どうしても格差は単なる運の要因だけでも生まれてしまうからである。
このような格差は本来ならば分厚い経済的な中間層の存在によって和(やわ)らげられるのが好ましいだろう。アリストテレスによれば、民主主義が最も機能するのは中間層が人口のうちの多くの割合を占める場合である。なぜだろうか? 私が思うに、それはこの数の多い中間層が「普通」や「相場」を形成するからであろうと思う。それが貧しくて卑屈になることもなく、そうかといって豊かさに任せて悪趣味かつ驕り高ぶることもない「中庸」の美徳を生産するからである。
そして、「普通」や「相場」は実際決して平均値でもなければ中央値でもなく、すなわち「中庸」だといってよいと私が考えるのだが、この美徳は貧しさゆえの醜さと豊かさゆえの端(はした)なさの両方を牽制し、文化的一体感や嫉妬する必要がない程度の「普通」の生活水準のイメージをもたらし、合意形成させることに寄与するであろう。
だが、そうはいってもこれは雲をつかむような話でもある。インターネットで交わされる罵詈雑言を見ていると、たいていは何かしら自分が独自に信じ込んでいる権威にもたれかかったり受け売りするか(まあこの記事もどちらかといえばそれだ)、もしくは「万物の尺度は人間だ」とばかりになんでも相対化して結局は他人からの意見に耳を傾けず、結局権威主義者と同じように自分の何の根拠も優越性も無い感想を反復する人々がよく目に入る。これもまた、両極化であり、分断である。
そこまでいかなくても、我々がメンタルヘルスやコミュニケーションについて学ぶについて、人間の多様性(そう、人間の本性 nature ではなく多様性 diversity である)ばかりが目に入り、それらの間でうまく妥協できる「中庸」の線引きをおこなって、両者の利害調整をおこなうフロネシス(思慮)のやり方を我々はまだ発見していない。個別の状況や才能に依存した方法はあるのかもしれないし、いまだ発見されていないものもあるのかもしれない。オンラインだからできる方法もあるのかもしれない。
もし、そういうものをいつまでも見つけられなければ、我々は再び「団結」できず、個人のレベルですらも、誰も得しない世界へと迷い込んでしまうだろう。
(1,854字、2024.09.30)