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自分自身の中の裂け目あるいは他者 Another Aspects in Yourself
自分自身が単一の意識なのかどうか、ときどき疑問に思うことがある。なぜ自分自身が単一でないと思えるのか? そう思える現象を列挙してみよう。
(1)思い出せないキーワードを探す係
何かの名前が思い出そうとして思い出せないことがときどきある。例えばこれが会話の中で生じると、タイミングよくキーワードを出すことができずもどかしい。しかし、不思議なことに数時間後に思い出せることがある。なぜなのだろうか? これは自分の中に何か想起専門の担当者がいて、自分自身で意図的に思い出そうとするのとは別ルートで、あるいはバックグラウンドで探索を続けてくれていて、それを後で意識に教えてくれるのだと解釈している。だから、私が意図的に想起したり推論したりする意識とは別に、私の中に自動探索係がいて自己内分業しているのだろうと思える。人によってはこれを「無意識」と呼んだり「潜在意識」と呼ぶかもしれない。
(2)左の視界と右の視界
左眼だけで見る視界と右眼だけで見る視界はあきらかに異なっている。一方、そのどちらとも異なる視界が両眼でみえる。このとき、両眼で見える視界こそが自分の意識に見えている視界だと思っているが、同時に左右それぞれの眼から見える視界だって背景に退きながらも存在していると考えるべきだろう。なぜならば、両眼でみえている間に左眼だけから見る視界や右眼だけから見える視界が光学的生理学的に見えていないわけではないからであり、当然、左右それぞれの視界が両眼の視界の材料になっているとしか考えられないからである。しかし、私の意識に左・右・両方が同時に現れてはいない。だから、両眼で見ているとき、左眼も右眼も私自身の一部でありながら裏方で動いてくれている他者として機能しているのである。
(3)外界に左右されない気分
私の意識は外界に向かって今・ここの知覚を開いていくモードのときもあれば、正反対に今・ここの知覚から離れて空想に浸ったりすることがある。しかし、知覚を開いているときでも、昨日と今日とでほとんど同じ刺激を受けているはずなのに昨日は明るい気分、今日は暗い気分になるという環境とはズレた気分が生じることがある。また、反対に今・ここの意識から離れて過去のクヨクヨや将来の不安に囚われているときであっても、今ここの知覚にもとづいた行動がまったくできないかというと、そういうわけでもない。不安に囚われていたとしても、歩き方やいったん憶えた自転車の乗り方を忘れてしまうというほど身体が今ここを忘れてしまうということは滅多にないのである。だから、刺激の受け取り方や解釈の仕方は私が「明るくなりたい」とか「暗いままでいたい」といった意図とは独立に動いてしまうし、そうかと思えば、特定の不安に囚われているときでも習慣的行動は自動的に身体が動いてしまう。こうしたとき、我々は自分の中のズレ、自分の中のギャップ、自分の中の他者に出会っている。
変化するチャンス
自分の中で思い通りにならない部分、どうしてもズレていってしまう部分は大したことのない範囲に収まっているときは大方である。ただ、ときにはそれは自分自身の中の他者からのシグナルかもしれない。だから、自分の中の他者にどんなタイミングで耳を傾けるか、「どのようにしてカラダの声に耳を傾けるか?」が自分を変えるキッカケづくりになったり、自分を変更するひとつの目安になったりするかもしれない。
例えば、誰かが「あなたがやりたいことは何?」と問い尋ねられても、それは簡単に答えられる問いではそもそもないのである。というのも、私は上記のように単一の存在ではなく、私一個人の中ですら多くの裏方に支えられて存在しているのであるからだ。したがってこのような自己に関する問いに真面目に回答しようとすれば、それらの裏方さんたちと相談したり調整したりする必要がある。通俗的な言葉で言い換えれば「自己分析」することなしにお答えできるものではないのだ。また、相談せずに自分自身の意識や他人の意識から提案された目標にガムシャラに突っ走るというのも、並大抵の苦労ではないだろう。悪くすると病気や自傷行為に走るおそれすらあるかもしれない。
ただ、自分の中に他者が居続けてそれと付き合う中で自分自身をよりよく変えていくチャンスをみつけることもできるはずで、それを自分の外にいて他人がくれるチャンスと同じぐらいに扱ってみてもいいのではないかと思っている。自分の魂の声に耳を澄ませるなどといっては、スピリチュアル過ぎるであろうか。
(1,852字、2024.02.26)