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短編小説|ふたりの蝶々

「アサギマダラ」という蝶は、1000キロも旅をするらしい。
翔太が父と近くの山へ登ったとき、その蝶はゆっくりと羽根を動かし、こちらを気にすることもなく花の蜜を吸っていた。

日の光があたり、青緑色の羽根がほんの少し透けて見えたとき、翔太はすでに目の前にいる蝶のとりこになっていた。

「きれい...。何て言う名前なんだろう。」
昆虫が大好きな翔太は色んな虫を知っていたが、この蝶を見るのは初めてのことだった。
「それは、アサギマダラって言ってね、海を越えて海外まで移動することができる蝶なんだ。」
翔太の父は大学で昆虫の研究を行っており、休日は息子と自然に入り探索するのが週末のルーティーンだった。

「アサギマダラ。」
「アサギマダラはね、あまり人を怖がらないんだ。ほら、翔太ももう少し近づいてよく見てごらん。」
父に言われ、そろりと半歩前に出てみる。
「本当だ、全然逃げない…。でもお父さん、この蝶、一匹しかいないよ。一匹で長い旅をして、寂しくないのかな。」
「そうだね。でもきっと、この蝶は移動した先で仲間と出会って楽しく暮らしていけるんじゃないかな。」
いつも学校で友達と上手く馴染めず一人でいることが多い翔太は、たった一匹でいる目の前の蝶に心なしか親しみを抱いた。

パシャリ、と父がカメラのシャッターを切る音で翔太はハッと我に返る。
「うん、よく撮れてる。翔太、この蝶のこと気に入っているみたいだし、家に帰ったら現像してあげるよ。」
「いいの?ありがとう。」
それから翔太は、写真を片時も離すこと無く、お守りのように持ち歩くことにした。

そんな翔太が、同じクラスメイトである山本凜の転校を知るのは、それから数日たった日のことだった。

「はーい、みんな席について。朝礼をはじめるわよー。」
担任の先生が声をかけると生徒たちがわらわらと席につき始める。
「今日は、みんなに大切なお知らせがあります。ご両親のご都合で、山本凜さんが来月転校することになりました。」
教室中で一斉に「えー!!」という声が上がる。
「どこに、どこに!」
「えー、凜ちゃんがいなくなるなんて私寂しいよう。」
子供たちは節々に声をあげ、彼女の転校は瞬く間にクラスのビッグニュースとなった。

「山本さんは、お父様の仕事の都合でイギリスへ行かれるんです。みんな、来月までたくさん、山本さんと思い出を作りましょうね。」

周囲の騒ぐ声がまるで聞こえないほど、翔太は事実を受け止められず、頭の中に「テンコウ」の文字が反響していた。

凜は、教室でいつも一人だった翔太にはじめて声をかけてくれた唯一のクラスメイトだった。ある日、図書館で翔太がいつものように昆虫図鑑を眺めていると、突然凜に話しかけられた。
「それ、何見てるの?虫の図鑑?翔太くん、虫が好きなの?」
「…別に。」

ひとりでいる方が楽だった翔太にとって、自分のスペースに入ってくる彼女は稀有な存在であり、戸惑いの対象でもあった。

凜は明るく、クラスでも人気がある。いつも彼女の周りには女子たちが集まっていたし、男子も遠くから凜を見ては彼女と話せないか、ソワソワしていた。

そんな多くの友人に囲まれる凜の姿を横目で見ては、自分とは関係ない女の子だと常に思っていた。
だからこそ、人と話すのが得意ではない翔太にとって、話しかけられたときに咄嗟に返せる器用さなど持ち合わせているはずもなかったのだった。

だが、その日は別だった。
凜のお別れパーティーがホームルームで開かれ、クラスのみんなが涙をすすりながら手紙やプレゼントを渡した。

翔太はポケットに入っている、お守りとしていたアサギマダラの写真がたしかにそこにあることを確かめた。
山本さんに、この美しい羽根をもつ蝶の写真を渡せたなら。しかし、翔太は最後まで渡すことが出来なかった。
どうして僕は写真一枚すら、渡す勇気もないんだろう。クラスの隅で立ったままの翔太は、目の前で温かく別れを惜しむクラスメイトに囲まれている凜の様子を、ただ見つめることしかできなかった。
そんな自分が情けなくて、翔太は気づかれないようにそっと教室を後にした。

クラス会もいよいよお開きになり、「バイバーイ」と生徒たちが凜に手を振り帰っていく。
「元気でね。」と最後まで別れを惜しんでいた女子生徒もいたが、凜はもう少し学校にいたいと伝え、思い出の詰まった教室を散策することにした。
凜が一番に行きたかった場所は、図書館であった。
いつも教室では一人ぼっちでいるけれど、図書館で虫の図鑑を夢中になりながら眺めていた翔太。彼はどこにいったのだろう、もう帰ってしまったかな。私、結局最後まで翔太君とだけは仲良くしてもらえなかったな。そんなことを少し後悔していると、凜の足は気づけば図書館に向かっていた。

ガラガラ…と扉をあけると、西日の差し込む窓近くの席に彼がいた。

ふたりの間に沈黙が流れる。静けさに耐えられなくなった翔太は思わず、
「…アサギマダラって知ってる?この蝶、すごくきれいなんだよ。」
と話しはじめた。
「知らない、初めてみた。」
「この蝶もね、海を越えて別の国に渡っちゃうんだって。」
「私と同じだ。…きっとこの蝶、寂しいだろうなあ。」
「僕もはじめはそう思った。でもね、渡った場所で、また新しい仲間と出会って、楽しく生きていけるかもってお父さんが言ってた。ねえ、これ、山本さんにあげる。」
「いいの?大切な写真じゃないの?」
「大切だから、あげるの。」

凜は翔太から貰った写真を大切に握りしめた。
「翔太君、一緒に帰らない?」
「うん。」

翔太の小さな心臓がキューっと絞られるなるような感覚がした。「この感じはなんだろう?」と思ったが、その気持ちの正体について翔太が知るのは、もう少し先のことだった。
だが、たしかに翔太は初めて誰かと一緒にいれなくなる寂しさで体の体温がスーッと冷たくなっていくのを肌で感じていた。

あの日、ふたりで見た写真の中の蝶は、まるで時間が止まったように輝いて、いつまでも美しい羽根を広げて飛んでいる。


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