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Library on a rainy day

 雨の日の図書館ってのも嫌いじゃない。小洒落たショートケーキみたいな直方体の建物の中に、何十万冊の本が眠っている。本ってのは数百枚の紙からできていて、紙は空気中の水分を吸う。森林と同じで、呼吸をする。雨の日の図書館は、だから、音もなく外の雨を吸い込む。そして晴れの日に溜めこんだ湿度を解放する。そういう、無機質な生命体。その体内に、俺は今から入っていく。傘を閉じて、ジーパンの裾を軽くはたいて、靴底の泥を落として、防犯ゲートをくぐる。

“いま来たとこ。そっちは?”

 ロビーを見回しながらメッセージを送る。返事は二秒で返ってきた。

”520”

 その数字を見て、俺は迷わず分類記号520――建築学の書架へ向かう。正確には、書架の横にある閲覧机へ。閲覧机は二つの席が向かい合う形で、その片側に待ち合わせの相手はいた。もう片側には鞄が置かれている。そうやって早く来たほうが席を取るのが俺たちのルールなのだ。ただ、俺がこいつより早く着いたことは、今までに一度もない。

「よう、ミキオ」

 俺が気さくっぽく挨拶すると、ミキオは眺めていた携帯のカバーを閉じて俺を見上げた。

「よう」

 抑揚のない低い声だった。ミキオは普段からほとんど喋らない。ニコリと笑うこともない。でも、背が高くて足が速くて頭が良くて家が金持ちで顔がいいから、男子からは一目置かれているし、女子からは熱い視線を送られている。ただ一つ瑕疵があるとすれば本名が山田幹男ってビミョーにダサいことくらい。だから俺は親しみをこめてミキオって呼ぶようにしている。逆に、ミキオは俺のことをショウユウとは絶対に呼ばない。天野翔侑、アマノショウユウ。少しもじって、I wanna show you。魅せてやんよ、的なニュアンス。いつか有名人になったらキャッチコピーにするつもりだ。

”見せてやる、は、I’ll show you。I wanna show you、は、見せたい。なに、おまえ、露出狂にでもなんの?”
”ちげーわ、ぼけ、かす”

 英語の宿題をしながら、俺たちはチャットする。声を出さないのは、図書館では静かにしなきゃいけないから、ではなく、ミキオが極端に無口だからだ。ネカフェでも、ファミレスでも、ミキオんちで遊んでいるときも、基本チャット。というのも、ミキオは自分の声が嫌いなんだそうだ。あと、目つきの悪さも、平たい足の形も、背骨の曲がり方も、浅黒い肌も、へその横にある大きめのホクロも、嫌い。それから、父親、義母、家出した兄貴、義母の連れ子の義妹と、そこらへんも全部もれなく大嫌いらしい。

”でも、チコちゃん、かわいいじゃん”
”世の中が、おまえみたいな頭の腐ったヤツばかりだから、あんな化け物が出来上がんだよ”
”なあ、こないだの誕生パーティのあと、チコちゃん、俺のことなんか言ってた?”
”『お兄様、チコは解せません。何故まだアレと友誼を結んでいらっしゃるのですか?』”
”うそはよくないぜ”
”『ずっとうなじのあたりにいやらしい視線を感じて甚だ不快でした』”
”ちげーし、見てたのはかんざしだし、いや、うなじも見たけど、一瞬だし”
”その目、くり抜いて売っちまうか”

 こんな風に益体もない雑談をしながら、俺たちは課題に取り組む。たまに、俺がわからないところをミキオに教わる。そうして午前中は過ぎていく。

 *

 午後になって、雨はほとんどあがった。俺たちは勉強用具をそのままに図書館を出て、コンクリート色の空の下をコンビニへ向かう。そこで、俺は今朝の星占いを思い出した。

「あれ? ショーユじゃん」

 ごめんなさい、魚座のあなた! 今日の運勢は最悪です! というアナウンサーの申し訳なさそうな声が、聞こえた気がした。

「まじか、ショーユ!」
「おまえ元気?」
「変わんねえなー、ショーユ!」

 気さくっぽく話しかけてくるのは、三人。似たようなラフな格好をした彼らは、小学校の同級生だった。

「ってか、なに、おまえサンドイッチなんて買ってんの?」

 ああ、また始まった、とか思いながら、俺は動物園で芸を強いられる猿みたいに半笑いに引きつった表情で「へ?」と間の抜けた鳴き声を出し、彼らは彼らでヤク中の猿みたいに手を叩いて愉快に喋り散らす。

「ちょいちょい、どうしちゃったの、ショーユ?」
「おまえはこっちっしょ、大好きな醤油おにぎり!」
「ショーユ、おやつに煎餅食おうぜ」
「うおっ、溜まり醤油だって! 普通に美味そうじゃん!」

 そうやって彼らはひとしきり定番のネタで笑うと、これまたお決まりのオチとして、一人がわざとらしく顔をしかめ、鼻をつまんだ。

「なあ、なんかここ醤油くさくね?」

 で、どっと大笑い、と。ここまでテンプレ。なんとなく思うのだが、こいつらは何歳になっても、俺に会うたびこの一連のやりとりを繰り返すのだろう。大した意味もなく、なんの疑問も持たず、そういうふうに作られたプログラムみたいに。
 いや、まあ、別に気にしてないけどさ。ただ、いつも同じところに薄い切り傷を刻まれるような、ひどくかゆくて、うんざりした気持ちになるだけで。
 そのときだった。

「邪魔」

 背後から、えらく不機嫌な声が響く。通路を塞いでいた三人は、けらけら笑っていた顔をぴたりと硬直させ、俺の頭の上を見つめた。

「なに見てんだよ」

 ミキオがドスを利かせてそう言うと、彼らははっきりしない声で何かうめき、ひとかたまりになって出口へ向かった。俺は、彼らがテキトーに置いていった商品を、まるで何かの罪滅ぼしのような気分で、棚の正しい位置に戻した。

「……ロクな知り合いがいないな、おまえ」

 ほっとけ、と、俺は蚊の鳴くような声で言い返した。

 *

 その後、図書館に戻った俺たちは、正面入口前のロータリー広場で、黙々と昼食を食べながら、チャットした。

”なあ、ミキオ、聞いていい?”
“なんだよ”
“どうやったらさ、ミキオみたいに、強くなれんの?”
“おまえには無理だな。才能がない”
“……じゃあ、せめて、簡単に負けないようにするには?”
”なんか、これだけは自分すげえ、みたいなのを持っとけばいいんじゃね”
”これだけは、かぁ”
“探せば、マジになれること、一個くらいあるだろ”
”……チコちゃんをお嫁さんにしたい……”
“魂ごと滅びとけ”
“そこをなんとか頼むぜ、ミキオ義兄さん”
”いや、そこは、おまえ自身でなんとかしろよ”
”おっしゃる通りで”

 携帯の画面から視線を上げ、空を見る。そこかしこに晴れ間がのぞいていた。俺は湿った空気を胸いっぱいに吸いこみ、ゆっくりと吐きだす。図書館のそれと、似ているけれど、はっきり異なる、意図的な呼吸。有機的な生命体。感情と言葉を吸っては吐いて、失っては取り戻して、小さなことで悩んで、うまくいかなくて泣いて、ガラにもなく悪ぶって、それからふとした瞬間に、運命みたいな恋をする。

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