幸せな瞳で何を見てきた
私は母子家庭だった。父親は幼稚園の頃に、パチンコの話で母と揉めて出て行ってしまった。最後に見たのは荷物をまとめる父の後ろ姿。
小学校で私はいじめられた。不当なことをしている人を注意したら、濡れ衣を着せられた。母はその時、ずっと夜も仕事をしていた。
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小学校を上がるくらいのタイミングで、母親が末期癌になった。仕事に追われて病院に行けず、もう遅かったらしい。
中学では最初の頃は行けていたが、小学校でいじめられたトラウマからか、不登校気味になっていった。母親は都営バスで帰ってきていたが、もうバス停までさえ、歩けなくなった。
「荷物を持ちに来て」と電話が入った。当時は、面倒でイライラしていた。
ディズニーランドやディズニーシーに、たくさん連れて行ってくれた。欲しいゲームソフトは、誕生日関係なく買ってくれた。
「あなたが寂しいだろうから」と言っていた。
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歩けなくなって、病院に入院し始めた時、私は面会にあまり行かなかったが、呼び出されたことがあった。
「頼み事」にイライラしていると、それは私が引きこもっている間に使っているインターネットの払込書。「これをコンビニで払ってきて」と言われた。
思わず「なんで?」と聞くと「あなたが困るでしょう?」と言われた。
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母は人工肛門を持ち運ぶことになった。癌で足は膨れていて、あんまり歩けない。
私が引きこもっているから、部屋から出そうと無理して、私の部屋の前まで来てくれた。トイレに行くのも、やっとだったのに。
病に向かって、闘う母親に安心していた。しかし、入退院が続いた。自分は引きこもっていたので、詳しくは知らなかった。
久しぶりに退院して帰ってきた時、母はもう呂律が回らなくなっていた。
母親の顔を覗いた時、ここまで深刻になっていると思わなかった。私は泣いてしまうと思って、すぐに目を逸らした。
母の最期は病院だった。その時、私は家族と喧嘩をしていて、病院にいたが帰ってしまった。「容態が悪い」と呼び出されて、病室に行くと母親は亡くなっていた。
冷たい手を触って、本当に死んでしまったんだと泣いた。私は14歳だった。
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葬儀では、学校へ行っていた頃の友達が来てくれた。
あんまりよく分からなかった。
私は県を移ることになった。喧嘩していた家族の家に。そうじゃなければ、児童養護施設に引き取られたから。
すぐさま高校受験が始まった。私は不登校だったので、あんまり良い高校には行けなかった。
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高校の時に出会った男友達で音楽をしている人がいた。とても良いと思った。曲作りに憧れた。
その憧れを好きになった女の子に「自分も曲を作る」と話すと「じゃあ、あなたの聴くまで死ねないね」と言われた。
2人とも、高3の時に絶縁した。
恋愛のいざこざと、価値観の違いだった。
深い絶望があった。理解者じゃない家族に囲まれながら、自分を理解してくれた友達を失ってしまった。死んでしまおうと思った。
どんな過ごし方をしていたか、深く覚えていないが、苦しかったことだけは覚えている。
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心にもない事をして、埋められるかと思ったけど無理だった。
絶縁してから、作詞作曲を始めた。
苦しみと葛藤の中で生まれた自分のオリジナル曲は、思ったよりも人に褒められた。苦しんで作ったからこそ、響いたのだと思った。
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受験に合格して、ボイトレの無料体験に行ってみた。独学で作ってきたけど、これ以上の自力は難しそうだと感じた。
ある場所は、半年通ったが方向性が違ってやめた。現在かよっている所は中々良い。
オリジナル曲を出したい。
もう音楽を続けてきて、3年が経った。
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