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道草の家のWSマガジン - 2024年3月号


ミモザによせて - UNI

わたしの母は仕事・家事・育児に頑張る女性だった。お昼休みにスーパーに買い出しに行って、それを職場の冷蔵庫に入れていたという。帰りは電動なんてまだ無い元祖ママチャリぶっ飛ばし、すぐに夕飯の支度にとりかかる。
わたしには弟への嫉妬心が密かにあったんだろうと今は思うけれど、母に誉められたくて、洗濯物を取り込んで畳む係を小学校に上がる春に立候補した。母が喜んでくれた顔を鮮明に覚えている。
「えっ、いいの? 毎日?」
「うん、小学生になるんやもん」
それから実家を出るまでその係だった。夕飯の支度も時々手伝った。煮干しの頭とワタを取って、水に漬けておく。お米を洗っておく。お肉を卵にくぐらせる母の指導のもと、バットに小麦粉やパン粉を少し足す。
「助かるわぁ、手ぇが増えて」

あまりにも時間がないときは、盛り付けなど、作業ゾーンに入らない仕事を割り振られた。
あるとき、玉ねぎを切ったあとの自分の指先をくんくんと嗅いでいる私に母が
「玉ねぎ臭くなった?」
と聞いた。
「ううん、お母さんの手ぇのにおいがするなぁと思って」
と返した。そうすると母は泣きそうな声で「ありがとう」と言った。泣きかけて、しまった、というような顔をした。料理が得意で、新しいレシピに挑戦し続ける母の能力をわたしを含む家族が当然のものとして受け取っていたのだ。
お母さんはひとりぼっちだ、そうわたしは受け止めた。
玉ねぎを刻み続ける手の匂いが母自身の誇りであり、日々の頑張りだった。そういう能力を家族のために発揮していることに愛をもって返されたことは少なかったのだろう。

それでも小学生の毎日はめまぐるしく、母という女性の孤独や家族運営のなかでの負担について一瞬芽生えかけた何かは、萌え上がる新しい日々にどんどんとかき消されていった。

三月八日。国際女性デー。「頑張る女性にエールを」という企業のPR文を目にして、がむしゃらに家庭を運営していた三十年前の母の姿を思い出した。今とひと昔前とをつい混同してしまうが、あの時の母と同じようにがむしゃらな女性たちへ周りはこれ以上エールを送らないで、と思ってしまう。

涙ぐんだひとりの女性の元に育ったわたしは、今や意図せず育児無し、家事はミニマム、仕事もミニマムな暮らしをしている。これについてはまた書けたら書きたい。


春-3月 - のりまき放送

帰ってきた奥さんとバトンタッチで家を出た。自転車をこいでキックボクシングのジムに向かう。ブレーキをかけながら家の前の坂道を下る。信号手前にある自販機前で自転車を停めた。信号のほうをちらりと見ると、ちょうど赤に変わったところだった。ズボンのポケットに手を突っ込む。固い金属の感触。硬貨を取り出し、自販機に入れる。一番上の段のボタンが白く光る。ガタン。ペットボトルが吐き出された。自転車に乗ったまま、取り出し口に手を伸ばす。指先から冷たさが伝わってきた。チャイルドシートに置いたバッグへボトルを入れる。まだ買ったばかりのグローブとレガースがバッグに納まっていた。近所の人が見たら何と思うだろうか? グローブを見えないように奥のほうへ押し込む。先日ジムの体験練習に参加した。練習が終わった後、ほとんど迷わないでジムに入ることを決めた。正直、月謝は高い。でも、今までの自分から何かを変えたい。その気持ちのほうが強かった。信号が青になる。ペダルをこぐ足にぐっと力を込める。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」番外編

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「多忙」
 6時37分、いまあと10分ならあると思って書いている。
 私はいま名古屋・金山にある書店・カフェ・ギャラリーの「TOUTEN BOOKSTORE」で詩集『手癖で愛すなよ』刊行記念の展覧会をさせていただいている。詩集の装画担当のイラストレーター寺田マユミさんとの二人展だ。
 それで、今は仕事をするかギャラリーに詰めているかのどちらかでとにかく多忙だ。日々が矢のように過ぎていく。そこで日々起こっている事件、たとえば「設営」「詩の暗唱をする男」「お前はどこから」「手羽先はお断り」など魅惑的な話を書きたいのだがとにかく時間がない。しかし、このWSマガジンの原稿も落としたくない。ああやっぱり私はWSマガジンが好きなのですよ。
 で、ひとつだけいいたいことがある。最近このWSマガジンの連載をまとめた、はじめてのZINE(小冊子)を作った。表紙はおちゃめな神様がウェイ~としてるやつ。(どんなやつやねん)3月3日に岐阜駅で行われた「岐阜駅 本の市」で売った。めちゃくちゃ売れた。表紙の神様イラストのおかげなのか。で、ちょっとだけわざと余らせてある。展覧会で売るために。
 で、苦し紛れに短歌を置いて今日はご勘弁願いたい。

「そんなことありますか?」ZINEを作ったよ TOUTEN2階で販売中だよ

 会期は3月16日まで。あたくしは「詩人の机」なるものも作って展示中。この顛末はあらためてどこかで書きたいと思っています。


挿絵・矢口文「食べでのあるお菓子」


麻績日記「奥のズレ道」 - なつめ

 昔、日本の中で戦乱が続いていた時代、この麻績の山の中に逃げ、隠れながら、生き残ってきたという武士もいたようだ。その話を聞いたとき、山に囲まれたこの村なら今でもひっそりと隠れることができそうだと思った。私は武士のように何かに追われ、隠れる必要など何もなかったが、もし元夫が何か思い立って私たちに会いに来るとしたら、ここまで来ることなど、とうていできない場所だろう。松本から電車に乗り、峠を越える長いトンネルを抜け、山の奥の奥に進んだところにある麻績村。「麻績」と書いて多くの人が「おみ」と読むこともできない地名を持ち、あまり有名でもなく、知る人ぞ知るこの秘境的環境。だからこそ選んでいる物好きな私。人と同じものというより、自分だけが気が付いてしまう、おもしろいもの、人、場所を見つけたとき、それが自分だけの宝物を見つけたようで、とてもうれしく思うのである。多くの人が注目しないような、めったに遭遇できないものを見つけた喜びと、それに対するときめきを私はいつも大事にしたい。「なんておもしろい世界を持っているのだろう! お会いできて光栄です」と私だけに思わせてくれる異世界を持つものとの出会いを放っておけない私の異常な感性。この普通ではないズレた感覚は、多くの人には通じないことなのかもしれない。私にとっては、私だけの、私のために、出会ってくれたような気がして、それらはキラキラと輝いて見えるのである。これほど都会から距離が離れた知らない場所にいるというのに、懐かしく安心できる場所であるということも、大変珍しい。まだ良く知らない麻績村をテクテクと歩いてみると、人が歩けるぐらいの小径に、人の手が行き届かず、草木がのび放題にびのびと生えている。手入れをされることなく、自然のまま、まっすぐのびている木や植物の姿に、強い生命力を感じる。その姿を見ると、窮屈だった私の心も同じようにのびのびとした素直な気持ちを取り戻していく。散歩の途中には、所々に祠や石仏、道祖神などもを見かけることもあった。武士が戦いに勝つように祈る神社や、戦いでのけがを治癒するために休んでいたような古い小屋やお寺もあり、その近くには祠や石仏がそっと佇んでいる。ぼんやりと歩いていたら見落としてしまいそうだが、その一つ一つが、物好きな私の目にとまる。こんなにも多く祠や石仏を見かけるのも珍しい。一体ここはどんな場所だったのだろう。その後、村の方に聞いてみると、山の中では修行僧が祈る場所だったと聞いたこともあった。この山奥で祈る修行僧の姿が確かに目に浮かぶ。山道の中にも石仏がポツポツと点在していた。その近辺には昔、神楽をしていたような古い舞台もそのままあり、人々が集まって宴や月見をしていたような場所が今も残されている。古代の日本人の生活や歴史を感じるような土壁で建てられた家も残っており、その周りの畑や柿の木が、日本昔話の『さるかに合戦』に出てくるような風景そのものであった。その中で、秋も深まり、落ち葉がはらはらと落ちていくのを見ていると、東京のビルや団地の多い場所から来た私にとっては、なんてしみじみとした味わい深い場所であり、懐かしさを感じる村なのだろうと、その異世界を眺めて感動していた。車が走る速さでは、祠や石仏を通り過ぎてしまい、見つけられないかもしれない。少し森の中に入って歩いてみないと、遭遇できない祠や石仏もあり、それらは昔からそこに小さくそっと佇んでいたのだろうと想像していた。こんな森の中にまで入って、石仏の顔を見て、「おお!」と、ときめく人が、世の中にどのくらいいるのだろうか。多くの人はスルーして気が付かないかもしれない。私はそのようなめったに見ることができない石仏に、不思議なロマンを感じ始めていた。車がなく、いつも歩いていた私は、もはや昔の人と同じように、この山の中を歩いている古人のようだ。そこで祠や石仏に遭遇するたびに、「あ、またあった! ここにも!」と、見つけては喜んでいる令和に生きている現代人でもある私。昔の人と何か通じることがあるとしたらなんだろう、と想像しながら歩いている。その石仏の顔は、安らかなものが多いが、ときどき勇ましさを感じるものもあった。古の人々は何を祈り、願ってきたのだろう。聖山や、聖高原、聖観音といったこの地の観光名所の名の通り「ひじり」という名がついていることにも、昔から神聖なものにお祈りをする巡礼の地であったということが納得できる。聖なるものや山によって守られた静かで安心できる秘境と私が捉えた麻績村は、昔から人々が安心を求めて訪れる場所だったのではないだろうかと推測し始めた。だれもが気軽に来ることができないような峠を越えた山奥の村にある神聖な場所に、今回移り住んだことは、何か運命的なものだったのではないだろうかとも思い始めた。たまたま遭遇し、移り住んだ場所であったが、何かそれだけではないような気もしてきた。東京の生活の中で、家庭内での修行と試練の連続だった私は、そもそも休む場所であるはずの家の中で、平穏な暮らしをずっと求めていた。仕事は楽しく好きだったが、帰る家は、私にとって全然休まらない場所だった。だからこそ、心から安心して静かに休める場所を懇願していた。それがこの度、この村だったということだ。この村に出会えて、しかも住むことができることが、こんなにうれしいことだというのに、村人にはそれがあまり伝わらないのが残念でならなかった。

「どうしてこんな村に来たの?」
と、村人や子どもたちによく聞かれた。
「こんな不便なところで生活できるかどうか、普通はよく調べてくるでしょう?」
と、まるで私がよく調べてこなかったかのように言う村人もいた。今考えると、その方が言われたように、普通に考えて、隅々までよく調べてきたら、選ばなかったかもしれない。でも、そのときの私は、今までの日常にはなかった強烈な異世界を持つこの村に、直感的に大きな魅力を感じ、この村に心を掴まれてしまったのである。その方が言う普通とは、そもそもどのようなことを言うのだろう。私の考えとは全然違うのだろうということはわかるが、その方に今度お会いしたら、聞いてみたいところでもある。その世間的に考える普通という概念を飛び越えたかった。世間一般の普通の常識とも言われるようなものに、苦しめられてきた私の半生を振り返ると、昔から、多くの人が選ぶような普通ではない物を好む人間だということも、薄々自分でもわかっていた。だからこそ、その普通を飛び越えたところに、住みたかったのだ。普通は選ばないであろう、あまり知られていないこの村に住むことが、私にとって必要な場所であり、おもしろいと思い、この村に住むことにしたのである。「こんな村」と村人に言われる村に、都会から来た私は、もしかしたら村人から見ると、なんて哀れな人だとでも思われているということだろうか。全然そんなことはなく、むしろ喜んで選んで来ているというのに、そう思うと悲しくなることもあった。私にとっては決して「こんな村」ではなく、とても安心感がある「素敵な村」であるから移住をしているというのに、それがやっぱり伝わらない。

 この村の小学校の支援員の仕事を紹介してくれた教育委員会の次長の浅井さんにその話をすると、笑いながら、こう言った。
「まあ、言われるでしょうねぇ。この村の人は都会の生活のほうが、うらやましいと思っている人のほうが多いかもしれませんね。この人(次長)にだまされて来ました! って言ってもいいですよ。うはははははー!」
と、またしても大変気楽な感じで笑い飛ばしながら、言い放っていた。
「そうですね~、それなら、そういうことにしておきましょうか。あははははー!」
と、私もその話の調子に合わせつつ、内心「私······実は本当にこの人にだまされてしまったのだろうか」と、一瞬不安になりかけた。「いやいや、そんなことはない!」と即座に思い直したが、村の人からしてみれば、都会の生活の方がいいと思う人もいるということだ。私にとっては安心できる村でも、村人にとってはそうではないということも大いにありえるということなのである。
 小学校の支援員の仕事をすることになり、見たこともない里山の中に一つだけある小さな小学校に勤務し始めた。毎日歩いて5分で小学校に着き、教室の窓から見える野山の風景を見ていると、今までの自分ではないような感覚に陥ることもあった。窓から見える風景は、都会の風景とは全く異なり、素朴な山が教室の窓から毎日見える。高いビルやマンションなどは一切なく、見えるのは名前も知らない山だった。「ここにいる自分は本当に自分なのか?」と思うぐらい何もかもが違っていて、随分遠くに来たことを感じていた。長年の東京生活での精神的な窮屈さと苦痛を感じていた日々から離れることができ、うれしい反面、今までとは真逆の場所にいることが、自分でも不思議であった。満員電車に乗ることもなく、道路には車やバスも多くは走っていない。空気は澄んでいて、毎朝歩いて5分で小学校に歩いて行くだけで、私は心身ともに元気になるのであった。とにかく静かで心地よい。この自然に恵まれた環境で育ってきた村の子どもたちは、都会にいる子どもたち以上に元気で溌剌とした表情をしており、濁りのないキラキラとした目をしている。自然とともに素朴にまっすぐ育ってきたことがわかる。そんな子どもたちと一緒に教室から見える野山の風景が、だんだんと日常になりつつあった。今まで住んでいた都会が非日常で、移り住んだ異世界のほうがだんだん日常になり始めていた。
 
 「意志あるところに道あり」それは、10年ぐらい前に国語の先生が教えてくれた言葉だ。どこか希望が持てる言葉であったが、当時の私は、本当にそうなのかな、と実感することができずにいた。どんなときも、言葉によって人を励まし、言葉によって自分を励ます、とも言われ、出発は言葉だと教わった。ぼんやりとして見えない心の内を言葉にし、願いやイメージを実際に創造していくには、まず言葉にすることから始まるようだ。心の内の一つ一つを言葉にして表現することで輪郭となり、それが最初の行動の一歩となり、形となっていく。その連続によって、人生で進む道がだんだんとできてくる。あれから約10年、東京で願っていた様々な想いや祈りの言葉がここへと本当に導いてくれたようだ。なかなか叶わないと思っていた。あきらめずに言葉にし続けていたら、時期が来たタイミングで叶った。「人の心を種として、よろづの言の葉となれりける」と『古今和歌集』の「仮名序」にもある通り、まずは人の心の種を言葉にしないと始まらない、それがやっと実感できた。日常の中で、願いやイメージを紙に書き、人と話したり、神社でお参りに行ったりしながら、空中に言葉を飛ばし続け、実行していたということだ。
 ひじりの空間と呼ばれる麻績村は、多くの村人たちが言う「こんな村」では決してない。麻績村は、神聖な祈りの場所がいくつもある。電車で降り立った駅のホームに観音様が立っていること事態、とても珍しい。私が利用していた東京の地下鉄駅構内で観音様を見たことなど一度もない。最初にこの駅へ降り着いたときから、ここは神聖な村への入り口だったのかと、私は思い、心の奥のズレ道と麻績村がこの度つながったということだ。同じ信州内の移住相談で色々な場所を見て、話しを聞きに行き、歩いて周ったが、その中でも、この不思議な安心感は他の村にはないものだった。だから、麻績村は私にとって「こんな村ではなく、稀有で素敵な村なんですよ」と改めて村人にお伝えしたい。


療養日記 - RT

とにかく焦らずというのが難しく昨日はできたのにどうして今日はできないのだろうと不安になる。
自分の心と体なのに思うようにいかないと恐怖を感じる。

思うようにいったことなんて一度だってあっただろうかという気がしてくる。

静かに横になっていたら度々通るヘリコプターの音が怖くて耳栓をするのも耳の奥に入り込んで外れなくなったらどうしようと思ってできなくて気持ちが内に集中しすぎたのか耳の中のピーという音が気になってしまって徒歩3分の耳鼻科に行ったら異常ないです、耳かきしすぎて赤くなってると言われた。耳掃除は必要ない。とにかくそれをおっしゃる先生だった。しなくていいんだ?
ピーという音は2日くらいで気にならなくなって、今度は心臓の音が気になる。過去2回病院に行って異常なしと言われてるのでしばらく様子を見ようと思ったらそれも落ち着いた。こんどは冷蔵庫が壊れたらどうしようと冷蔵庫の音が気になり始めて。日々新しい不安が生まれるものだから家族に退屈せんねと言われる。
耳栓はできるようになった。少しは前に進んでる。

わたしってこんなにへんてこだったっけ。今頃気付いたのかって感じなんだけど、いつも大真面目に頑張ってきたつもりなんだ。いまそれでよかったのかなって揺らいでる。

へんてこでもいいからやれることをやろうと洗濯をしてお茶を沸かして料理をする。野菜を食べろという母の遺言を守る、こまめに水分をとる、歯を磨く。お風呂に入るってすごく気力を使うことだったんだ。

3月8日、素麺始めます。



ご挨拶 - スズキヒロミ

「ただいま」
「ただいまあ」
「ただいま」
「あ、おかえり。お、さっぱりしたじゃん、良かったね」
「ん」
「マゴちゃんおかえり。ありがとうね」
「ぎゅうにゅうちょうだい」
「はいはい」

「いつもどこまで行ってたの」
「ふふ、A市だった。国道ずっと行って、A警察署の並びの」
「へえ、そんなとこまで。会社の向こうじゃん」
「うん。でもあれだって、もともとこの近所でやってたんだって。マツキヨの向かいあたり」
「ほお」
「その頃から通ってたらしいよ。あとなんかね、おばあちゃんに似た人だった」
「ふうん、そうか」
「あ、そうだお釣り」
「は? ······お釣り?」
「え?」
「もらったことないよ今まで。三千円っていうからさ」
「あ、そう。······あれだな、髪切りに行くとタバコ二、三箱手に入るわけか」
「そういうことか」
「ごめん、言っといてくれないからバレちゃったよー」
「ん、そうか」
「やるよそれ。ガソリン代」
「どうもどうも。最後になるかも、って話したら、鼻毛切りくれたよ。すごい良く切れそうな、ほら」
「ふうん。お前使えば」
「いいの? じゃあもらおう。あ、あとね、タケちゃんにも会ってきたよ」
「そう、家行ったの?」
「いや、田んぼのほう」
「そう」
「トラクター乗っけてもらったんだよねー」
「うん」
「良かったねえ」


あまいにおい - 橘ぱぷか

 睦月如月弥生、毎年のことなのに進むスピードについていけない。気がつけばもう3月。ゆるくやわらいだ空気の中を自転車ですり抜けて、体をまあるく春に浸す。心なしかいつもよりペダルもほんのり軽いような。
 あらゆる場所で芽吹いた甘い香りにつつまれて、そのゆたかさに思わず頬がゆるむ。張り詰めていた冷たい空気がやさしくたわみ、いくつもの春が鼻から口へと抜けていく。
 4月からはじまる毎日。その準備としてあれこれ縫ったり、修行のようにお名前スタンプを押したり。手作り指定(涙)のお布団を作るのになんと3時間もかかったり。裁縫はとにかく苦手なので、時間をたっぷりかけた割に笑っちやうくらいの大胆な仕上がりだった。
 けれども糸がチクチクしないようにと縫う箇所を考えたり、お絵描きする姿を思い浮かべながらクレヨン1本1本に名前を書いたりしているうちに、気持ちがたくさん溢れてきた。お祈りみたいに。大丈夫だよ。大丈夫だからね。ここにいるからね。いつも一緒にいられなくても味方だからね。
 ささやかだけど、面倒だけど、こうして手を加えたものが2人を守ってくれますように。寂しくなった時や悔しいことがあった時に、彼らをそっと包んでくれますように。勇気が必要なときにそっと背中を押してくれますように。そんな気持ちがたくさん溢れてくる。
 いつまでも新しいことが苦手な私は春が苦手でいつもちょっと怖いけれど、甘い香りやあったかい空気はそんな気持ちを少しだけ溶かしてくれる。大丈夫だよって、揺れる気持ちに寄り添うように。

抱きしめて小さなつむじに鼻寄せる胸いっぱいにやさしさ貯めて


ぼーっとする必要 - 下窪俊哉

 そういう時間を、あってもよい、と考えるのではなく、なければならない、と考えるのが創作の世界である。
 忙しく、慌ただしく、動き回っていることは、それに比べたら大事ではない。いつか疲れて、止まるだろうことがわかっているからだ。しかし、ぼーっとする時間は、先が見えない。
 忙しくすることの効用には、どんなことがあるだろうか。
 ひとつには、悲しみを忘れたり、考えることからその間、解放されるということがある。ずっと悲しんでいたり、考え続けたりすると、いつか壊れてしまう。自分を救うために忙しくするのかもしれない。しかし、それで悲しみが消えたり、考えが止まるということにはならない。
 再び戻ってくる。
 そこで必要なのが、ぼーっとする時間である。
 空白の時間を恐れてはならない。こんなに何もせずにいて大丈夫かな、と考えるのを止め、何もしない時間を必死で生きているのだ、と考える。
 しかし何もしないというのも難しい。気づいたら何かしているというのが、私たち現代人である。ゴクロウサマ。
 そんなふうに気づくことも、ぼーっとする時間のなかに含まれる。何もしないという行為も、実際にしてみないことには、それがどのようなことであるのか、わからない。
 じっと見つめるのではなく、ぼーっと眺める、ということによって、見えてくることがある。そこに、その人の創作が入り込んでくる。
 ぼーっとするだけで作品は出来るのか、というと、そう簡単にはゆかないかもしれない。でも、いいじゃないか。ぼーっとすることが出来たのだから。
 暮らしてゆくのも楽じゃない。ぼーっとしてばかりいられないよ? という人には、細切れでいい。ぼーっとする時間を、日々のなかに少しずつ持つ。
 何もしないという時間の豊かさを感じられ始めたら、しめたものだ。

(私の創作論⑪)


フェスティバルやめた - Huddle

じぶんの暮らしているまちが突然「文学創造都市」を自称するようになり、「ユネスコ創造都市ネットワーク」の文学分野における新規加盟申請が認定されて(同分野での加盟認定は日本国内では初)、これはもうやるしかない! ということで「おかやま文学フェスティバル」で盛りあがっている。これを書いているいま(3/8)も、まさにその渦中にある。

2/23の坪田譲治文学賞贈呈式を皮切りに、2/25には文フリによく似た「おかやまZINEスタジアム」、3/3は商店街が本屋で埋まる一箱古本市「おかやま表町ブックストリート」が開催され、いずれもにぎわってみえた。3/9と3/10、フィナーレとなる「おかやま文芸小学校」では、廃校を舞台に全国から地方の小出版社や古書店が集まり、本を買いすぎることでお金を失うことができるだけでなく、ワークショップやトークイベントにも参加できて盛大に時間を溶かすこともできる。

今回は坪田譲治文学賞は受賞しなかったので贈呈式には出られなかったが、ZINEをつくったのでZINEスタジアムには出店したし、ブックストリートではおすすめの蔵書を並べつつ、晴海三太郎くんといっしょに『アフリカ』を売った(売上金はアルコールへ昇華され晴海三太郎くんの体内に消えた)。文芸小学校でも店番をするというか、いわゆるひとつの休日出勤である。出し物のひとつである「おかやま文学○×クイズ」でシンキングタイムの音楽を鳴らす仕事などもある。今年も懇親会で餃子を食べ過ぎるつもりだ。

フェスティバルの準備があるせいで昨年末くらいからずっと時間に追われる毎日という気がしていたが、どんなにいろいろ積み重ねてみても、本番のたのしい時間はあっという間に過ぎ去り、なんど経験してみても、祭りが終わるときはやっぱりさみしい。さみしいけど、ちょっとほっとしている。フェスティバルやめた、という気分になる。「また来年お会いしましょう」「また来年」「楽しみにしています」。

「おかやまZINEスタジアム」のために用意した『YAMETA』という冊子がおもいのほか好評だった。かつてインターネットの企画に寄せた、その年のベストな「やめた」について書いたもの三年分をまとめた一冊だ。せっかくなのでやめずに次号を出したいし、ここにぽつぽつ「やめた」のことを書きつづけていけたらよいかなとおもっている。(2024/3/8)


表紙画・矢口文「Assembly」


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 花粉症の季節だそうです。私は花粉症とは無縁のはずですが、幼い頃からアレルギー性鼻炎には時折、悩まされてきました。今日は久しぶりにその症状が出て頭がぼーっとしていますが、今月も、WSマガジンをお届けします。● 初登場の方がありますが、『アフリカ』ではお馴染みの彼です。え、誰? 犬飼さんは、本人が書いているとおり、ここでの連載を小冊子(ZINE)にして売っているそうです。展示を観にゆかれる方は、ぜひお買い求めください。● このWSマガジンの参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!(もう春ですね)


道草の家のWSマガジン vol.16(2024年3月号)
2024年3月10日発行

表紙画と挿絵 - 矢口文

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/下窪俊哉/スズキヒロミ/橘ぱぷか/なつめ/のりまき放送/Huddle/晴海三太郎

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - ゲリラ・ライブ
読書 - 眠読推進会議
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎々 - 本を2冊持っている猿は、なに猿?
音楽 - 焚き火
出前 - 揚げ物研究所
配達 - 三輪車便
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房

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