時給500円

障がい者の時給500円。お金で価値が決められない社会へ。

昔観ていたとあるテレビ番組で、障がい者を雇う会社が取り上げられていた。

その番組のナレーションが、こう言った。

「彼ら(障がい者)の時給は、500円。」

この言葉を聞いて、心が猛烈にざわっとした。

健常者の時給よりも低いのだ。
たしかに、生産性に差は出るので、時給が低くなるのも当たり前だし、実際同じ健常者でも能力(生産性)によって給与が異なるのも当たり前。

でも、こうはっきりとスタート時点での時給という数字を目の当たりにすると、とても胸がザワザワする。

だってそれはまるで、
時給500円の障がい者は時給900円の健常者より価値がない、
と言われているようで。

人間の価値は、時給で決められるものじゃない。

数字に表せるものじゃない。

みんな、それぞれ美しく尊い存在で、皆一様に素晴らしく価値がある。

それが今の資本主義では、その人が生み出したモノの価値に対してお金が支払われる。

だからどうしても、その人がもらえるお金=その人の社会での価値 と暗に意味付けされてしまう。


コンテストやコンクールなどもそう。その人の能力を人間が評価して順位づけをする。

何かができる人を、その出来ることや努力を称えて順位づけされるのは、それでいい。


じゃあ、誰かより突出して出来る事が、何もない人は?

突出して出来る事がなければ、大勢の人と同じ事しかできなければ、「当たり前だから」、特段賞賛されることはない。

さらに、大勢の人と同じ事、立ったり歩いたり話したり年齢に応じた知能レベルを持っていたり、が出来なければ、社会という枠の中から弾かれてしまったり、時給が低かったりする。

当たり前の事が出来るだけでも、素晴らしいことなのに。

この世に生まれてきた、それだけで完全体でみんな素晴らしい存在なのに。

それが評価されにくい社会が、今のこの社会。

だからみんな自分のレベル上げに必死になり、
誰かと比較して優劣をつけ、
あの人より劣る自分に劣等感を抱き、
こんなことも出来ない自分は生きる価値がない、と自分の存在価値を、見失う。

人より優れたことが何も出来なくても、この地球に存在していることには価値があり、生きているだけで誰かを幸せにする力がある。

ただそれだけのシンプルなことでいいのに、それだけじゃ生きていけない(お金が稼げない)社会、という現実。


この社会は、こじれてる。


お金じゃないところで、人の価値を認めたり賞賛されたりする場や考え方があればいいのに。

どうしたら、そんな世界になるかなって、思考を巡らせる。


あなたも私も、みんな、素晴らしいよね。




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