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歩みつつ垣間見た美しい時の数々 『彼方のうた』

近頃になって、またスタンダードサイズ(4:3)の映画が力強く現れつつある。イエジー・スコリモフスキ監督の『EO イーオー』、ケリー・ライカート監督の『ファースト・カウ』、ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。
毎度のことながら新作を楽しみに待つ杉田協士監督の長編映画も一貫してスタンダードサイズの画角を保っているが、世の中に横長の映画が氾濫する中で堅持されるこの四角さは、フレームの外に広がる絶え間ない世界のためにあるような気がしている。
私たちは見えなかったり、聞こえなかったりするものを捉えようとする時、人間の持ちうる中で最も美しい能力である「想像力」を発揮する。『彼方のうた』はそこに捉えられた何かの映画であると同時に、捉えられなかった何かをほとんど無限に支持する映画なのである。

アナ・トレントのように大きな目

杉田協士監督作品を見るにあたって、あらかじめ公式HPに書かれたストーリーを読んでも仕方がないような気がする。とりあえず映画館に行って、席に座り、そこに写っているものを確認すべきだ。
ポスターの真ん中に最も大きくうつる、小川あんがこの映画の主演に違いないと思う。彼女はファーストショットから佇み、カセットプレイヤーを手にしている。何かを一心に見つめているようにも見えるし、そう見えて何も見ていないようにも思える。
彼女がどういう性格の人物なのかはおいおいわかるにしても、私は彼女が何者なのかは知らないし、彼女の方でもそれを私たちに伝える義務などはない。
しかし撮影のどうして美しいことだろうか。スタンダードサイズに収まった画そのものが常に映画にとって最も自然な画の数々のようにさえ思われてくる。
既にファーストショットから私の思考はめまぐるしく展開し、休まるところがない。あなたは誰?あなたは何を見ているの?あなたは何を聞いているの?そういう疑問を抱きながら、映画が最初からそれに応えてくれたりなどはしないのだ。

そして映画は幕を開け、再び彼女は現れる。色眼鏡をかけて、「こんにちは」と現れる。この映画ではそれでお役御免となってしまう色眼鏡を外した時に現れる彼女の力強く大きな目はまるで『ミツバチのささやき』のアナ・トレントのようでさえあった。

(C)2005 Video Mercury Films S.A. 『ミツバチのささやき』のアナ・トレント

『ミツバチのささやき』…思わずつぶやきたくなるこの映画こそ、夢幻のような映画だった。今をもって有名なアナ・トレント演じるアナの投げかけるようなまなざし。誰もがこの目に吸い込まれそうになる。
そしてこの小さい体に大きな目でもってスペイン内戦直後の陰鬱な時代に、フランケンシュタインの怪物や街の郊外の小屋に逃げ込んだ脱走兵のような彼女にとって得体のしれないものたちと向かい合うのであった。
映画史においてほとんど稀有といっていいこの「目」はとってつけたようなアクセサリーなどではなく、正真正銘それを通して世界を覗く「目」なのである。
小川あん、というより彼女が演じる春がアナと同じ目を持って対峙する世界とは何なのだろうか。

オムレツをつくる時間

結局のところ、『彼方のうた』という映画は最後まで何かを明らかにするような説話を拒絶している。前作『春原さんのうた』と同じように登場人物たちには「何か」があったような気がする。『春原さんのうた』において、それは押入れの中のリコーダーという形で本当にわずかばかりに表象されるものが、『彼方のうた』ではカセットプレイヤーという形で表れているのだが、いずれも何かがもうすでにそこにない、しかし遠くには漠としてある、という状態が常に続いているかのように感じさせる。
『彼方のうた』で捉えられるのは、いまそこで起きている何かであり、それは必ずしも劇的ではない。通常、物語映画は主人公がなにかしらの決断を、決断しないことも決断することも含めて繰り返していく。時間・空間・人物の無限大なこの世の中でカメラが切り取ることができるのはわずかばかりの瞬間であり、物語映画は「決断」の周辺をつないでいくことでしばし進行していく。
一方、『彼方のうた』はじめとして杉田協士監督作品では、物語化を絶えず拒絶する方向に進んでおり、観客となる我々は本当の意味でそこにうつっているものしか見えないし、知り得ない。
例えば、この映画でとても印象的なオムレツをつくったり、焼きそばを食べたりする「行為」、映画を見る、バイクに乗る、ワークショップに出る、行為が行為のままで紡がれている。私たちにできることはそれを受け止め、思いを馳せることである。そしてこの時、『彼方のうた』はいかなる思いを観客が抱くことも止めはしない。
バイクに乗って長野の上田へとやってきた春と雪子の二人が映画館で見ているのは濱口竜介監督の『偶然と想像』である。虚の多い言葉の氾濫の中に真実を隠し、その真実に手探りで近づこうとするのが濱口映画の会話劇である。それは不思議にも、とてつもなく巨大な沈黙の周縁に現れる「行為」に真実の一端をのぞかせるような迫力がある『彼方のうた』と対照をなしているかのようだ。

フレームの外へ

そう、私たちは真実なにも知り得ない。心の奥底に思いを馳せることはできても、知ることはできない。関係は穏やかに続いている。しかし誰もがお互い平穏に暮らしたいと願っている。言葉でさえも心に嘘をつくことがあるし、言葉は心の写し絵ではない。
ありとあらゆる物語は一面において人間の心や関係を単純化し、上映時間の枠に圧縮する。本来はもっと複雑で無限大のニュアンスを持つ人の心を、そのまま映画に収めようとするには、狭い画角の外に無限大の想像力を置いておけるスペースを作るしかない。いやしかしそのあまりに途方もない試みを続けている杉田協士監督作品を見るたびに、映画の地平のその先が伺えるような気がして来る。
そこでうつっていることはいつも美しい。美しいのだが、その外にあるものに何かを常に問いかけ続けているようでもある。そのようにして成立した『彼方のうた』というまことに不思議な映画は、明確に物語がないがしろにしてきた人間をそのままに描こうとする究極の人間賛歌にほかならないと思うのである。
(2024.1.20)


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