おはよう、世界。ただいま、日本。ようやくスタートダッシュを切れそうだよ。
右手には高層ビルがそびえ立っていて、斜め左手には、国道を通る車が朝からひっきりなしに人々を運んでいる。わたしがいたこの場所は、週末になると避暑地を求めて、大勢の人がやってくるモールに隣接する、ホテル15階。マレーシアの首都、クアラルンプール。
朝6時。地平線に向かって、おはよう、世界。と、ひとりつぶやく。それはまだ世界が真っ暗なヴェールに包まれていて、車のライトが、まるでちいさな命を宿しているように見える。朝日が登るのは午前7時過ぎだったっけ。
身支度をして1階の朝食会場へ。ジェントルマンなウエイターが席を案内してくれる。でも、わたしはそのサービスを断って奥へとひとり進んでいった。
何台ものファンが回転し、ぬるい空気をかき回している。涼しいとは決して言えないが、不快だとは感じない、午前8時。まだ朝だからだろう。
キンキンに冷えた室内よりも、東南アジア独特の、喧騒と活気あふれるアツい空気。そうそう、わたしはこの空気に触れたかったんだ。
"ナシレマ" マレーシアの定番の朝ごはん。ココナッツで炊いた米に、サンバルソースというマレーシア独特の辛いソースをかける。そこに鶏肉、ゆで卵、キュウリのスライス、お好みで豆、煮干しを添えて。
サンバルソースの味はただひたすら辛くて濃い。水をがぶがぶ飲まなくちゃいけない料理を朝から食べるなんて、と思うけれど、毎日が常夏のマレーシアでは体力をつけるために必要なことなのかな。食事をしながらふと思う。
朝ごはんってこんなに美味しかったっけ。
***
日本で生活していたときは悲惨だった。糖質に依存していたから、パンやアイスクリームを見ると、喉から手が出るほどほしくなった。それに加えて深夜の食事がやめられず、体重は増加していくばかり。
感情の起伏も激しかった。嬉しいニュースがあるとすぐに興奮し、冷静な判断ができなくなっていた。反対に、悲しいニュースがあると何日も寝込んだ。
感情が日常に彩りをもたらしていたのではなく、感情によってわたしという人間が突き動かされていたかのようで。それはもはや人間じゃなくてロボットみたいだった。
そう、わたしはすでに疲れていた。永い休みがほしかった。就活解禁直後、2019年3月上旬。黒いリクルートスーツを着た人が颯爽とわたしを追いこしていき、真っ黒なわたしの心は、海の底へ光が見えないところまで落ちていった。そんな中で、リクルートスーツを手放してやってきたマレーシア。
旅をしにきたという意識が、今までのどんな旅よりも薄かった。
今まで自分がしてきた”旅”とは、程遠いものだったから。
気の向くままにゲストハウスを渡りあるいて、出会った人とざっくばらんな話をしたりお酒を飲んだりした、いつかの旅。でも今回は東南アジアで初めてホテルに連泊して。数人の日本人以外とは交流をもたなかった。
バッククパックを背負って、旅人に優しいKEENのサンダルを履く。これが、わたしの旅の制服。けれど今回は、スーツケースを手に、足元はナイキの靴。
でもわたしにとって、マレーシアの滞在は正真正銘の”旅”だったように思う。就活が始まった時期に海外へきた、わたしだけが経験できた、わたしにしかできない旅。
マレーシアを旅しているのではなくて、マレーシアで、自分の内側にある思考を巡りあるいていたんだから。
考え事に時間を費やしていた毎日。朝起きてすぐ、頭の中に浮かんできた言葉を書きとめるモーニングノートを。日中はカフェにいき、これからの人生を考える時間をつくった。夜は静かに読書をして心穏やかに眠る。
「生きていること自体が幸せだ。」この上ないよろこびを噛みしめて。日本から離れて、自分の状況から距離を置いて、過去にも未来にも執着せずに、今この一瞬を味わえたから。
15階から注ぎ込んでくる、世界の広さやちいさな命の輝き、大きな自然のエネルギー。おはよう、世界。ぽろりとこぼしてしまう情景を前にして、明日の心配なんてできると思う?
心がやっと追いついた。ひとりになってみて初めて自分自身の心に。
未来のことが心配になったら思いだせばいい。未来は、この一瞬一瞬の積み重ねでできていること。どんな風にこの状況を楽しめばいいだろうか、という気持ちの持ちようのところを意識すればいい。
いつも笑顔の人はこの先も、笑顔でいるためのヒントを知っている気がするから。
帰国後の日常生活も”旅”の連続だと思った。ある体験を通して今までの考えが変わったし、偶然によって違う世界へ導かれたこともあった。刻々と過ぎていく日々のなかで、決断といえないささやかな選択によって、予期していなかった方向へ進んでいくこともある。
それならばわたしたちにできることは、ありふれた言葉だけれど、今を楽しむことしかできないんじゃないか、と。今を、この一瞬を、思いやりをもって大切に、笑顔で生きていくことができたのなら。きっと、明日もその先も変わらずに。
マレーシアの旅は終わってしまったけれど、わたしの人生の旅はこれから。ようやくスタートダッシュを切れそうだよ。
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