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ありがとう環世界、ありがとう國分先生。『暇と退屈の倫理学』
ずいぶん前のEテレ特番『哲子の部屋』が好きだった。
そこで初めて哲学者・國分功一郎氏を知った。
あれから10年、同番組で國分さんが教えてくれたユクスキュルの”環世界”という概念をなんど思い出してきたことだろう。
”なぜ人は学ぶのかー”
楽しめることを増やすため。好きなことを学び続けたいとおもえた。
やっと手に取る本書には知りたいことがいっぱい書かれていた。
ずっと教えてほしかった、私に付きまとう思考の理由。
それは、レジスタンスや隠れキリシタンや三島由紀夫や学園闘争時代や高等遊民になぜ惹かれるのか。
大義の為なら命を捧げることすら惜しまない、やることが沢山あり、人間が活々と生きていて、労働の合間の暇じゃない品位あふれる閑暇を過ごす人々が、単純に羨ましいからなのだ。
生きている感覚の欠如、意味の不在がもたらしているものなのだ。
さらには、消費ではなく浪費する暮らしをせよと10年前に教わってから、すでに理由すら朧げになり忘れかけた誓いまで新たにした。
はやく読めばいいのに、ちゃんとここに書いてあるのだった。
今回、胸に引っかかったのは疎外と本質について。
いつか、心の病気に苦しむ身内が拒絶した言葉の真意を初めて理解する。
本質的が疎外されてしまうものを作る魔のワードになりうることを。
さらには初めて知る”サリエンシー”という概念。
私はなぜ変化を好むのだろう、好奇心の表れだと単純にとらえていたけれど、そうじゃなくて、過去に受けた傷や慣れがたい環境に置かれた長さがそうさせるとしたら...深く納得できるんである。
刺激を求めるのはそれを強いる個人史を背負っているから。
暇が訪れたとき、耐えられる量が決まる”サリエンシー”なるものに気づきながら生きていたほうが、きっとしあわせだ。
ありがとう環世界、ありがとう國分先生。
そうして、暇をしないために、とりさらわれるモノを増やすにあたって、ジル・ドゥルーズの言葉が心強い。
「私は待ち構えているのだ」ドゥルーズはとりさらわれる瞬間を待ち構えている。彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。(P408)
ドゥルーズ先生、私もです。